秀吉の強さを知らな過ぎた、北条家の四代目
北条氏政ほうじょう うじまさ
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
画像
誕生 1538年(天文7年)
生誕地 相模国
北条氏康
瑞渓院(今川氏親の娘)
幼名 乙千代丸
截流斎
官名 従五位上、左京大夫、相模守
近親など 正妻:黄梅院武田信玄の娘)
弟:北条(大内)氏照北条(藤田)氏邦北条氏規北条(佐野)氏忠北条氏秀(上杉景虎)など
妹:桂林院(北条夫人・武田勝頼の継室)など
子:北条氏直など
ゆかりの地  相模国 小田原城
略歴 ●北条家
1538年 (1歳)
関東の覇者北条氏康の子として生まれる。

1554年 (17歳)
甲相駿三国同盟が結ばれたことから、武田晴信(信玄)の長女、黄梅院と結婚。

●家督相続
1559年 (22歳)
北条氏康より、家督を譲られる。

1561年 (24歳)
長尾景虎(上杉謙信)小田原城を攻められるが防御。
小田原城攻め(上杉謙信)

1564年 (27歳)
国府台合戦(第二次)で、北条家が里見家の大勝。

1567年 (30歳)
三船山の戦里見義弘に大敗、房総から撤退。

1568年 (31歳)
武田信玄が駿河へ侵攻したことから三国同盟が破れ、妻、黄梅院を離縁。

1569年 (32歳)
上杉謙信と同盟。(相越同盟)

小田原城攻め(武田信玄)

1571年 (34歳)
北条氏康死去。

●武田との同盟
上杉謙信との同盟を破棄し、武田信玄と結ぶ。

1572年 (35歳)
三方ヶ原の戦で、武田信玄に援軍。

1578年 (41歳)
上杉謙信の死により、上杉家では後継者争い(御館の乱)が起こる。

氏政は、上杉謙信の養子になっていた実弟、上杉景虎を援助するため、同盟者である武田勝頼に援軍を要請。

しかし勝頼は上杉家を北条家の血筋の者が継ぐと武田家の地位が下がることを恐れたことなどから景勝と和睦、これにより景虎は孤立し敗北、自害。

これを受けて武田家との同盟を破棄。

●隠居
1580年 (43歳)
嫡男北条氏直に家督を譲る。

1582年 (45歳)
天目山の戦では織田信長徳川家康に呼応し、関東口から武田攻めに出陣。

織田信長本能寺の変で自害。

これを機に、氏直に信長の関東方面司令官滝川一益上野国に攻めさせ勝利(神流川の戦)。

これをきっかけに信濃国へ進出し、真田家などを取り込む。

これに対し信濃国を狙っていた徳川家康と敵対するが和解し、嫡男氏直の嫁に、家康の娘督姫を迎える。

●徳川との住み分け
甲斐国信濃国は徳川領、上野国は北条領に。

これにより、相模国伊豆国武蔵国下野国上野国下総国、合計240万石の領主に。

●豊臣への徹底抗戦
1588年 (51歳)
関白豊臣秀吉からの上洛命令を拒否。

1590年 (53歳)
豊臣秀吉の22万人の大軍に対し小田原城に籠城し抵抗する(小田原城攻め)が、次々と支城を落とされ、密かに頼りにしていた徳川家康伊達政宗が当てにならないことがわかり降伏。
子の北条氏直は家康の婿ということで、高野山への追放とされたが、氏政は、弟の北条氏照とともに責任をとって切腹。
レクイエム 小田原城籠城を決めたのは、これまでにも武田や上杉に攻められても一度も落ちなかったことからの自信からであった。

しかし、信長時代から兵農分離を行ってきた豊臣勢の強さを知らな過ぎた節があること、同盟者である家康の動向をつかみきれなかったことなど、情報収集不足が招いた滅亡といえる。
死没 1590年(天正18年)7月 (享年53歳)