戦国時代の水先案内人
北条早雲ほうじょう そううん
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誕生 1456年(康正2年)
生誕地  
伊勢盛定(将軍の申次衆)
伊勢貞国の娘
伊勢盛時、伊勢宗瑞、早雲
元服名 伊勢新九郎盛時(長氏との説もあり)
幕職 申次衆、奉公衆
官名  
近親など 正妻:南陽院殿(小笠原正清の娘)
側室:栖徳寺殿など
子:北条氏綱、北条氏時、北条幻庵など
姉:北川殿(今川義忠の正妻・今川氏親の母)
ゆかりの地 GOOGLE MAP 備中国 高越山城
GOOGLE MAP 駿河国 石脇城
GOOGLE MAP 駿河国 八幡山城
 駿河国 興国寺城
 伊豆国 韮山城
 相模国 小田原城
 相模国 玉縄城
 相模国 早雲寺
略歴 ●伊勢家
1456年 (1歳)
室町幕府の申次衆で、備中伊勢氏である伊勢盛定の子として、備中国荏原荘で生まれる。(高越城にて生誕説が有力)

●駿河入り
1467年頃 (12歳)
姉(北川殿)の嫁ぎ先である駿河国今川家の客将となり、石脇城に入城。(推定)

1476年 (21歳)
今川義忠没後の家督争いの調停に成功。(甥の龍王丸(今川氏親)が元服するまで、叔父の小鹿範満に後見させるという折衷案)

その後、駿府守護のために八幡山城に入城。

1481年 (26歳)
九代将軍、足利義尚の申次衆に。

1487年 (32歳)
再び起こった今川家をめぐる騒動に対し挙兵、幕府の「龍王丸を元服させ当主に据えるように」という命令に従わない小鹿範満兄弟を急襲して討ち取る。

幕府の奉公衆に。

●今川家への随身
駿河国興国寺を拝領し、興国寺城を築城、今川家の家臣に。

1489年 (34歳)
甥の龍王丸が今川氏親と名乗り正式に今川家を継ぐと、早雲は守護代(?)として重用される。

●伊豆討入り
1493年 (38歳)
伊豆国堀越公方家の家督争い(豆州騒動)に乗じ、当主である足利茶々丸堀越御所に攻め堀越公方を滅亡させる。(伊豆討入り

その後、韮山城を居城とし、伊豆国内で善政(四公六民の税制など)を行い領民の支持を得、短期間で伊豆国を平定。

関東の扇谷上杉定正と同盟。

1494年 (39歳)
上杉定正の要請を受け、関東に出陣し関東管領の山内上杉顕定と戦うが、高見原で上杉定正が落馬、死没したため伊豆国に帰還。

この後、弱体化必至の扇谷上杉家からの離反を決意。

●小田原城
1495年 (40歳)
山内上杉顕定の圧迫を受けた扇谷上杉家から、その家臣大森藤頼の居城だった相模国小田原城を謀略を使って攻め盗る。
(1496年以降との説もあり)

1498年 (43歳)
山内上杉顕定や武田信縄を頼って再興を諮っていた足利茶々丸を捕らえて、自害させる。

1504年 (49歳)
扇谷上杉家への援軍として今川氏親とともに武蔵国に出陣、立河原の戦で、山内上杉顕定に勝利。

1506年 (51歳)
相模国で検地。

1507年 (52歳)
扇谷上杉家が山内上杉家と和睦。(長享の乱の終結)

1509年 (54歳)
扇谷上杉家と山内上杉家が再び敵対(永正の乱)するという混乱の中、扇谷上杉家との同盟を破棄し、その本拠である武蔵国江戸城攻略に向かうが、上野国に出陣していた上杉朝良が戻ってきたため対峙。

この頃、今川家から独立。

1510年 (55歳)
その後再び和睦した両上杉家と対立関係となり、小田原城に迫られたために扇谷上杉家と和睦し危機を免れる。

この後、相模国守護代の三浦道寸(義同)攻略を決意。

1512年 (57歳)
小田原城攻めを行った三浦勢が兵を引いたところを急襲し壊滅させ、その勢いで岡崎城にいた三浦道寸(義同)を追い、住吉城へ追いこむ。

相模国東部経営と三浦家攻略の拠点として、玉縄城を築城。

●相模平定
1516年 (61歳)
三浦家の救援に駆けつけた上杉朝興玉縄城を攻められるが撃退し、その勢いに乗り新井城へ退却していた三浦道寸(義同)、三浦義意父子を攻め滅ぼし、相模国一国を平定。

1518年 (63歳)
子の北条氏綱に家督を譲る。

1519年 (64歳)
死没。
死没 1519年(永正16年)8月 (享年64歳)
レクイエム 戦国時代の幕開けとされる「伊豆討入り」は、十一代将軍、足利義澄の命によるものという説がある。足利義澄は庶兄の足利茶々丸によって母(円満院)を殺害されていることから、この説はかなり有力。

相模国を平定したが、自身の居城は最後まで韮山城とした。

「北条」姓は早雲の死後、子の北条氏綱が名乗ったのが最初であり、早雲自身は北条とは名乗らなかった。

鎌倉期から室町期にかけて、日本は守護や地頭の権威に頼った領民支配が続いて来たが、農業の生産性向上にともない領民にも経済的にゆとりができてきたことなどから、旧来の支配体制は崩壊しつつあった。

そういった背景を充分に踏まえて早雲は、国の主体は農民であるという信念に基づく善政を行ったことから領民の支持を短期間に獲得し、それが兵力の拡大につながり、駿河国興国寺領を皮切りに、伊豆一国、さらには相模国と支配地を増やす結果となった。

14年早く生まれたとする、享年88歳説もあり。