ガラシャの夫で利休七哲のひとり
細川忠興ほそかわ ただおき
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
画像
誕生 1563年11月28日(永禄6年11月13日)
生誕地  
細川藤孝(幽斎)
 
幼名 熊千代
与一郎、細川三斎
官名 越中守、侍従、参議
近親など 正室:細川ガラシャ明智光秀娘・玉)
子:細川忠隆、細川興秋、細川忠利 など
ゆかりの地  山城国 勝龍寺城(現在、勝竜寺城公園)
 丹後国 田辺城(舞鶴城)
 豊前国 中津城
 豊前国 小倉城
略歴 ●細川家
1563年 (1歳)
足利義昭幕臣、細川藤孝(幽斎)の子として生まれる。

●信長への随身
1573年 (11歳)
足利義昭を見限った父とともに、織田信長に仕え明智光秀の与力となる。

1579年 (17歳)
明智光秀の娘、玉と結婚。

●丹後国
1580年 (18歳)
父とともに丹後国の一色家を攻め、その功から父とともに丹後国一国を拝領。

1582年 (20歳)
本能寺の変織田信長を殺した義父明智光秀から味方につくよう求められるが、だまし討ちは卑怯であるとして従わず、光秀の娘で妻の玉(細川ガラシャ)を幽閉する。

細川藤孝から家督を譲られ、田辺城(舞鶴城)主に。

●秀吉への随身
その後羽柴(豊臣)秀吉に仕える。

1583年 (21歳)
賤ヶ岳の戦で戦功をたてる。

1584年 (22歳)
小牧・長久手の戦で、織田信雄に勝利するなど戦功をたてる。

羽柴(豊臣)秀吉からの許しを得て、妻のガラシャが大坂の細川屋敷に戻る。

●家康への接近
1595年 (33歳)
豊臣秀次事件のあと、秀次から借金していたことが判明し、謀反に参加していたと豊臣秀吉に疑いをかけられるが、徳川家康に助けられる。

1598年 (36歳)
豊臣秀吉の死後は、徳川家康に仕える。

徳川家康前田利家の関係が悪化した際、間にたって仲裁役をつとめる。

●三成との対立
1599年 (37歳)
加藤清正福島正則とともに、日頃から不仲の石田三成襲撃を計画するが未遂に終わる。

●愛妻の死
1600年 (38歳)
徳川家康の、会津上杉景勝征伐に参加。その際西軍が妻の細川ガラシャを人質にとろうとしたが、ガラシャはそれを拒み自害(キリシタンは自害が許されないことから家臣に殺させた)。

関ヶ原の戦では石田三成隊の島左近らと戦い、功をあげる。

●豊前
戦後は豊前国中津39万石に加増され、中津城主に。

1602年 (40歳)
小倉城に居城を移す。

1609年 (47歳)
居城小倉城の大幅修築を行う。

1610年 (48歳)
父、細川藤孝が死没。

1615年 (53歳)
大坂夏の陣で豊臣方についた二男興秋を切腹させる。

1620年 (58歳)
三男の忠利に家督を譲り隠居。中津城へ。

●肥後
1632年 (70歳)
細川家が肥後国(54万石)へ転封となり、八代城北の丸に入る。

1646年 (84歳)
八代で死没。
死没 1646年1月18日(天保2年12月2日) (享年84歳)
レクイエム 石田三成の襲撃をはかったり、妻細川ガラシャがキリシタンになった際、怒って侍女の鼻をそいでしまったというエピソードもあり、かなり過激な性格であった。

反面、妻ガラシャへ一途に愛情を注いだ。

利休七哲のひとりとして、茶の湯でもその名は知られていた。

後に首相となる細川護熙氏の先祖。