武田信玄に降り高遠城主となった
保科正俊ほしな まさとし
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誕生 1511年(大永7年)
生誕地 信濃国
保科正則
 
幼名  
甚四郎
官名 筑前守、弾正忠
近親など 子:保科正直、内藤昌月
孫:保科正光など
ゆかりの地  信濃国 高遠城
略歴 ●高遠
1511年 (1歳)
信濃国伊那の高遠城主で、高遠頼継の家老、保科正則の子として生まれる。

その後、家督を相続に。

●信玄の侵攻
1545年 (31歳)
高遠頼継武田信玄に攻められ降伏、甲斐国に隠遁。

●高遠城
1551年 (37歳)
武田信玄に臣従し高遠城を与えられる。

以後は武田家の先方衆として、各地に転戦し活躍、「槍弾正」と呼ばれるように。

1572年 (62歳)
武田信玄上洛戦では、伊那を守備。

●信玄の死
1573年 (63歳)
武田信玄死没。

跡を継いだ武田勝頼に仕える。

1575年 (65歳)
長篠の戦で武田軍が大敗。

三男の千次郎(内藤昌月)が、長篠の戦で戦死した武田家の重臣、内藤昌豊の養子に。(異説あり)

●武田氏滅亡
1582年 (72歳)
織田信長の武田攻めが始まると飯田城に入城するが、織田信忠に攻められ開城。

天目山の戦で武田家が滅亡。

その後、北条氏直に属す。

●再び高遠に
本能寺の変後の天正壬午の乱を経て、徳川家康に臣従し、高遠城に戻る。
孫の保科正光高遠城主に。

1585年 (75歳)
徳川家康の重臣、石川数正が出奔し羽柴(豊臣)秀吉に臣従すると、それに呼応した松本城主、小笠原貞慶の5千に攻められるが、4百の寡兵にて立ち向かい大勝。
(鉾持除の戦)

1593年 (83歳)
死没。
死没 1593年9月1日(文禄2年8月6日) (享年83歳)
レクイエム 鉾持除の戦の際、嫡男の保科正直や孫の保科正光は出陣中で、城には敵の10分の1以下の4百しか残っていなかったが、農民3百を集めて旗印を持たせ、戻ってきた本軍に見せかけるなどの準備をした上で奇襲をかけ、味方を大勝に導いた。