箱根の坂を超えられなかった新公方
堀越公方ほりごえくぼう
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関連する場所  伊豆国 堀越御所
概要 ●鎌倉府の敵対
室町幕府は、坂東(箱根以東)の支配のために鎌倉府を設置し、代々足利氏がその長官である鎌倉公方に就いていたが、第四代公方の足利持氏、第五代公方の足利成氏の時代に幕府に対抗し、それが元で関東は戦乱に巻き込まれた。(詳細は古河公方のページに)

足利成氏は幕府軍に破れ、鎌倉を捨て下総国の古河に退去し、その後数十年に渡って古河を拠点に君臨する。そのため古河公方と呼ばれた。

●足利政知
1458年、幕府は正式な鎌倉公方として、足利政知を関東に派遣するが、古河公方に味方する勢力はあなどりがたいものがあり、政知は伊豆国堀越にとどまり御所(堀越御所)を建てたことから、こちらは堀越公方と呼ばれた。

関東は、小山氏を初めとする関東の有力豪族が担ぐ古河公方方と、幕府、堀越公方、関東管領の両上杉家(山内・扇谷)とそれに従う豪族とによる対立構造を保つことになった。

公方を称してはいたが、実質的には伊豆国2郡からの税収が頼りの支配者であり、領民にとってはいい迷惑であったに違いない。

●茶々丸のクーデター
堀越公方足利政知は、箱根の坂を超えられないまま1491年に病死するのだが、後継者に指名されたのは二男である足利潤童子であった。
政知の嫡子、足利茶々丸は素行不良のため土牢に軟禁されていたのと、潤童子の母、円満院が足利政知に寵愛されていたためと言われている。

これを不服とした足利茶々丸は、土牢から抜け出すと潤童子と円満院を殺害するという暴挙にでて、第二代堀越公方を名乗った。(豆州騒動)

しかし従来からの凶暴性などから家臣団の支持を得られず孤立、2年後、駿河国今川家の客将で興国寺城主の伊勢新九郎(北条早雲)によって堀越御所を急襲され降伏、堀越公方は滅亡となった。(伊豆討入り

早雲は、伊豆国にも四公六民の税制を敷いたことから領民に歓迎され、一度の戦だけで、念願だった伊豆国を平定したことになる。
考察 早雲の伊豆盗りについては、幕府の指示があったと言われているが、それにしても武力で一国を奪取したのはこれがはじめてであり、北条早雲は戦国時代のフロンティアと呼ばれる所以である。