信頼していた部将明智光秀の謀反
本能寺の変ほんのうじのへん
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西暦 1582年6月21日
和暦 天正8年6月2日
略図
場所  山城国 本能寺
 山城国 旧二条城
 丹波国 亀山城
 丹波国 愛宕神社
概要 ●情勢
天下統一をすすめてきた織田信長には、当時、柴田勝家丹羽長秀滝川一益明智光秀羽柴秀吉といった方面軍司令官ともいえる部将がいた。

柴田勝家は、越中国魚津で上杉景勝と対陣中。
丹羽長秀は、織田信雄を総大将として四国の長宗我部元親征伐へ向かい和泉国堺に。
滝川一益は、武田討伐後の上野国経営のために、厩橋城(前橋城)に。
羽柴秀吉は、備中国高松城において、毛利家の最前線清水宗治と対峙していた。
このように織田家の主力のほとんどが地方におり、唯一信長のそばにいたのは、徳川家康への接待役を任された明智光秀だけであった。

毛利方の清水宗治の籠る備中高松城の水攻めを行っていた羽柴秀吉からの援軍要請にこたえるため、信長は自らも出陣準備を始めるとともに、天正8年5月17日に明智光秀にも出陣令を出した。

●敵は本能寺にあり
6月1日、京都の本能寺に立ち寄り、公家や商人を迎えて茶会を行い、当日は本能寺に宿泊したが、この際信長に従っていたのは、森蘭丸ら側小姓など600人ほどのわずかな手勢だけであった。
これほどの少人数で宿泊できるほど、信長の勢力が畿内で安定していたことを意味する。
嫡男の織田信忠は明覚寺に宿泊した。

この手薄な信長に対して謀反を起こしたのが、明智光秀である。
5月17日に中国への出陣命令を受けると、近江国坂本城に戻り、さらに5月26日には主城となっていた丹波国亀山城に入り、5月28日と29日には近くの愛宕山にある大権現に参篭し、連歌師の里村紹巴らと連歌会「愛宕百韻」を行ったが、光秀は最初に「時は今 雨が下しる 五月かな」という前句をつけた。「五月に土岐氏(光秀の姓)が(信長を倒して)天下を取る」との意があったと言われる。

6月1日、1万3千人の軍勢を従えて出陣した。

6月2日、未明に桂川を渡ると、全軍に「敵は本能寺にあり」と告げ、主君の信長討ちを宣言し、早朝本能寺を包囲、信長を攻撃した。

信長は明智光秀の謀反を告げられると、「是非におよばず(仕方ない)」と言い、弓をとって最後まで戦うが、力尽き自害。側小姓の森蘭丸森坊丸森力丸などもことごとく討ち死にした。

また嫡男織田信忠も、宿泊していた妙覚寺から旧二条城(二条御所)に移り、誠仁親王を禁裏に避難させたあとで抗戦するが、明智軍に攻められ自害に追い込また。

●謀反の理由
明智光秀が謀反を起こした理由には諸説がある。実際には、これらの中の複数の要因によるものと推測される。

@野望説
・信長に替わって天下人にならんがため

A怨恨・不満説
・日ごろこき使われていた信長への不信や不満から
・毛利征伐で、羽柴秀吉の指揮下に入るよう信長に指示されたことに対する不満から
比叡山焼き討ちや、一向宗徒の殺戮、恵林寺における快川紹喜(同じ土岐氏)の焼き討ちなどを行ってきた仏敵信長へ懲罰を与えるため
・ちょっとした光秀の言動を聞きとがめた信長が、森蘭丸に命じて鉄扇で光秀の額を打たせた恨みから
・家康への接待の不手際(腐った魚を出した)を人前で叱責された恨みから
波多野秀治に降伏の際の助命を約束するために人質として渡した母(本物?)を、信長の処断のために殺された恨みから(八上城の戦)
・信長が老臣を次々に追放し始めたことから、自分もいずれは同じように追放されると思い込んだため
・光秀の家老斎藤利三の妹が嫁ぐなど、友好関係を築いてきた四国の長宗我部元親に対し、信長が征伐を決断したことから、面目を失った

B黒幕説
・光秀の旧主足利義昭(信長に室町将軍の座を追われた)からの要請
・朝廷からの要請、もしくは公家からの要請

黒幕説の理由もいくつかある
・信長は正親町天皇の皇太子、誠仁親王の五の宮(邦慶親王)を自分の猶子としており、将来は邦慶親王を天皇として公武ともに支配しようとしていた。それを回避しようとした
・信長が禁裏の必要性を感じていないことがわかり、将来起こるべく禍根を断とうとした

C共犯説
羽柴秀吉徳川家康、あるいはその両者が共犯だったという説

この後光秀は、備中国からとって返してきた(中国大返し羽柴秀吉らとの山崎の戦で敗れる。