一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ
本多作左衛門
ほんだ さくざえもん
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誕生 1529年(享禄2年)
生誕地 三河国 宮地
本多重正
鳥居忠吉の娘
幼名 八蔵
作十郎、本多作佐衛門重次
官名  
近親など 弟:本多重玄
子:本多成重(仙千代)など
ゆかりの地  三河国 大平城(このあたり)
 駿河国 江尻城
 三河国 岡崎城
略歴 ●松平家家臣
1529年 (1歳)
松平家家臣、本多重正の子として生まれる。

1535年 (7歳)
三河国の松平清康に仕える。

主君、松平清康、家臣の謀反により死没。
跡を継いだ松平広忠に仕える。

1549年 (24歳)
主君の松平広忠が死没。
松平竹千代(徳川家康)(当時人質として在尾張国)が松平家を相続。

1558年 (33歳)
松平元康(徳川家康)の初陣の際、先鋒を務める。その際、ともに出陣した弟の本多重玄が戦死。

●三河三奉行
1560年 (35歳)
桶狭間の戦。主君の松平元康(徳川家康)岡崎城に入城。

1563年 (38歳)
三河国一向一揆に一時参加するが、再び松平元康(徳川家康)の元に帰参。

1565年 (40歳)
天野康景高力清長とともに三河三奉行に。

1566年 (41歳)
一向一揆の平定戦で貢献。

1570年 (45歳)
徳川家康浜松城を居城とし、家康の嫡男、松平信康岡崎城主に。

1572年 (47歳)
三方ヶ原の戦で武田家に大敗したあと、家康を守って無事に浜松城へ連れ戻す。

1573年 (48歳)
家康の側室、於万の方が身籠ると、築山御前の嫉妬から守るため奥から救い出し、子(結城秀康)が生まれるとこれを養育。

1575年 (50歳)
長篠の戦に参陣するが、片目を失明。

1579年 (54歳)
信康事件

1582年 (57歳)
本能寺の変の際は、家康に随行し和泉国堺を観光中だったが、伊賀国経由で三河国へ無事帰国。

駿河国江尻城代となり、駿河奉行に。

1584年 (59歳)
小牧・長久手の戦のあと、羽柴(豊臣)秀吉の人質となった家康の二男、於義丸(のちの羽柴秀康=結城秀康)とともに、嫡男の仙千代を人質に差し出す。

●岡崎城代
1585年 (60歳)
石川数正が徳川家を出奔すると、替わって岡崎城代に。

1586年 (61歳)
豊臣秀吉が、実母の大政所を家康の岡崎城に送り込み、家康が大坂へ伺候すると、宿所の周囲に薪を積みいつでも大政所を焼き殺せるように仕組む。

●秀吉の逆鱗
1590年 (65歳)
小田原城攻め後、主君の徳川家康豊臣秀吉から作佐衛門殺害を命じられるが、家康はすでに病死したと偽ってかくまう。

家康の関東移封にともない、上総国古井戸に、のちに下総国井野に蟄居を命じられる。

1596年 (71歳)
死没。
死没 1596年(文禄5年)7月 (享年71歳)
レクイエム 奉行として民政に活躍したが、本来は鬼作佐の異名をとったように剛健な鬼武者であった。

長篠の戦に出陣中、妻に送った短文にして明快な手紙、「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」は有名。

小牧・長久手の戦後、秀吉への臣従は止む無しと考えていたが、敵対を主張する多くの重臣をなだめるためにわざと敵対派の首謀のように振る舞い、徳川家が滅亡の道へ進むのを阻止したと考えられている。

大政所の宿所の周囲に薪を積んだことも、その一環であり、また石川数正の出奔についても作佐衛門と示し合わせた上での行動であったと推定される。

子の仙千代は、のちに本多成重となり、徳川家康に取り立てられ、越前国丸岡城主(4万3千石)となる。