伊達政宗、生涯で一番の危機
人取橋の戦ひととりばしのたたかい
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
西暦 1585年
和暦 天正13年11月
略図
場所  陸奥国岩代 二本松城
 陸奥国岩代 本宮城
GOOGLE MAP 陸奥国岩代 人取橋の戦場
 陸奥国岩代 小浜城
概要 ●人質作戦失敗
1585年10月、陸奥国岩代二本松城主、畠山義継は暴挙に出た。
伊達家との奥州における勢力争いの末の和睦会談の際、伊達家当主である伊達輝宗を拉致したのである。

父を奪われた伊達政宗が追いすがり、逃げ切れないことを悟った義継は、伊達輝宗を刺し殺し自害して果てた。
輝宗政宗に、「自分もろとも畠山義継を銃撃せよ」と命じたとも言われる)

●弔い合戦
伊達政宗は翌11月、畠山義継の遺児、国王丸を擁する二本松城を1万3千で包囲、攻撃するが吹雪のために包囲を解き、高田原に布陣して様子見を始めた。

その間に常陸国佐竹義重佐竹義宣の父)が陸奥国南部の諸豪、白石家、二階堂家、葦名家などを糾合し、3万の軍勢で畠山家の援軍に駆けつけた。

伊達政宗は、本宮城近くの観音堂山に布陣し、佐竹義重ら連合軍と戦闘が始まり、決戦は観音堂山南方の人取橋となった。

戦は数に劣る伊達勢が劣勢となり、後退を始めた。その際伊達老臣の鬼庭左月斎が、数十騎での防戦に努め政宗の退却を助けたのち、討ち死に。
また、瀬戸川館にいた伊達成実も、政宗の退却を助ける奮闘を見せた。

●連合軍の退却
本宮城に退却した政宗にとっては人生最大の危機であったが、翌日、思いもよらず連合軍3万が戦場から離脱し始めたために、その危機を逃れた。

これは、佐竹家の本国常陸国に、敵対していた水戸家や里見家が侵入したため、帰国せざるを得なかったのである。
この水戸家や里見家の牽制行動は、伊達政宗の裏工作の結果だったという説もある。

また、連合軍の軍師、佐竹義政が、馬の手入れについて叱責した家臣から逆恨みを受け、陣中で殺害された影響もあったようである。

伊達政宗は厳冬接近ということもあり、小浜城まで引き上げた。

結果的には、戦では負けたが、大きな被害もなく連合軍を退却させた伊達政宗の強さが、諸豪の間で認識されることになり、今後の奥州での主導権争いに大きく影響した戦であった。