突然追い詰められた関白
秀次事件ひでつぐじけん
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西暦 1595年
和暦 文禄4年
略図
場所 GOOGLE MAP 山城国 聚楽第
 山城国 伏見城
 紀伊国 高野山
概要 ●関白の懸念
天下人豊臣秀吉の数少ない身内として引き立てられ、嗣子のいない秀吉の後継者として関白の地位まで譲られた豊臣秀次だったが、1593年に秀吉の実子(二男)お拾い(豊臣秀頼)が誕生しており、後継者としての立場は危ういものであった。

しかし、秀吉は初めから秀次を失脚させようとは思っていなかったはずである。
関白を秀次に譲ったのは、お拾いが生まれた2年後だったことでもそれがわかる。

●聚楽第と伏見城
京都の聚楽第を関白となった豊臣秀次に譲り渡した秀吉ではあったが、実子お拾い(豊臣秀頼)のために伏見にあった秀吉の隠居用館を本格的な城郭に改造し、諸大名の屋敷も集めることにした。
これにより、諸大名は伏見城のお拾いのそばに居るほうが得策であることから、関白秀次の元を離れていった。

このような仕打ちをされれば、関白の地位を剥奪されるのでは?と秀次が不安を覚えたのは当然であり、そのために悪行が目立ち始めたと言われる。
例えば鉄砲の試し討ちと称し農民を撃ち殺したり、町の中で辻斬りを行ったり、聖域である比叡山で狩をしたりという記録まである。「殺生関白」と呼ばれたのはこのためである。
それらが事実かどうかはかなり怪しい。秀次を失脚させ、お拾いを後継者にしようとする秀吉の家臣の流言だったかもしれない。
というのは、秀吉の側近である奉行衆にとってみれば、秀吉亡きあとの豊臣政権の主役が、このままでは関白秀次の周辺に移ってしまうことは明白で、かなりの危機感を感じていたはずだからである。

秀吉の誤解を解こうと、秀次は秀吉を聚楽第に招き接待を行うことを計画し、一旦は了承した秀吉だったが、これも中止となった。
この頃には秀次の殺害は決定していたのであろう。

●糾弾
豊臣秀次に謀反の疑いありと突然糾弾したのは、奉行である石田三成増田長盛であった。
理由は、朝廷に多額の献金をしたため、または、諸大名に対し自分に忠誠を誓わせるための連判状の存在が明らかになったため、などとされる。
秀次はもちろん弁明する。

秀吉は弁明のために伏見に来るよう秀次に命じる。秀次はそれに従い、伏見の木下吉隆屋敷で待っていが、届いたのは秀吉からの高野山への追放令であった。
直接の弁明さえ許されないまま、追放となったわけである。
当然、関白、左大臣の地位も剥奪された。

●切腹
その後、秀吉の命令で秀次は青巌寺(のちの金剛峰寺)において切腹。検死は福島正則が務めた。

数多くいた妻子39名も、ことごとく六条河原で処刑、秀次の家臣である前野将右衛門や木村重茲、渡瀬繁詮なども命じられて自害。

その他、秀次に借金をしていたり、親しかった大名の中にも、事件に関係したと嫌疑をかけられたものがいた。
最上義光は謹慎。
細川忠興は、密かに秀次に借金していたが、徳川家康に融通してもらった金で穴を埋め無事。
伊達政宗は2年間の弁明の末、許される。

聚楽第は忌まわしい館であるとされ、取り壊された。

結果、秀吉の後継の座はその実子であるお拾い(豊臣秀頼)へ移った。