念願の豊後を手に入れた島津勢
戸次川の戦へつぎがわのたたかい
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西暦 1587年1月
和暦 天正14年12月
周辺図
場所  豊後国 鶴賀城
 豊後国 鏡城
GOOGLE MAP 豊後国 大友氏館
 豊後国 臼杵城
GOOGLE MAP 豊後国 戸次川の戦場
概要 ●先遣部隊豊後到着
九州の島津攻め(九州攻め)を決断した豊臣秀吉の派遣した諸将の内、四国の長宗我部元親、信親父子、十河存保、そして軍監の仙石秀久が、9月、豊後国の府内に到着、仙石秀久が指揮をとることになった。

秀吉は彼らに、命令があるまでは討って出たりせず自重するように命じていた。

●戦の始まり
ところが、自領である宇佐郡で反乱軍が蜂起したとの報を受けた大友義統大友宗麟の子)は、この反乱の鎮圧に向かった。
その隙を島津勢はついてきた。留守になった府内の大友氏館や、大友宗麟の隠居城である臼杵城への進軍を開始したのである。

臼杵城を包囲された大友宗麟は、国崩しと名づけられた大砲で島津勢を砲撃するなど防戦に努めた。
島津軍は、大友勢が宇佐から戻りつつあることを知り、本軍と合流すべく府内に向かった。

●鶴賀城
その途中に、利光宗魚の篭る鶴賀城があり、島津軍はこれを攻略すべく、1万8千の軍勢で城の南に布陣した。鶴賀城は府内の前衛としての要地にあって、攻略できれば大勢を有利に導けると判断したためである。
城主の利光宗魚は、島津勢との戦いを櫓の上から見ているところを討たれてしまうが、城兵たちは主人の死を隠して必死に戦い、援軍の到来を信じ城を守っていた。

危機に陥っている鶴賀城をどうするか豊臣方は軍議を開くが、秀吉の命を守り自重しようという意見が多い中、指揮を執る仙石秀久は、「鶴賀城を見捨てるのは武士の義にもとる、単独でも援軍に向かう」と言い張ったことから、長宗我部父子や大友義統なども加えた6千で出陣することになった。

●戸次川
豊臣勢6千は、戸次川(現在の大野川)の西岸を進んで鏡城に着陣。これを見た島津勢が鶴賀城の包囲を解き退陣にかかったため、仙石秀久はこの機とばかりに、戸次川を渡っての総攻撃を命じた。

一方の島津家久は、豊臣勢が意外に少人数なことを知り、全軍を三手に分けて決戦に挑む。

最初に、島津の先鋒、伊集院久宣が長宗我部隊と激突、伊集院が退却する形となったが、第二陣の新納大膳正隊がこれを救護し、長宗我部隊を押し戻す。

また、鶴賀城の東に待機していた島津の第三陣、本荘主税助が新納大膳正隊に呼応し、豊臣勢の左翼を突き崩し、仙石秀久の本隊に迫った。

この島津勢の動きは、島津の釣り野伏せと呼ばれる戦法であった。

これにより豊臣方は敗走を始め、島津勢の勝利となり、戦いの翌日、鶴賀城や大友家の本城である府内を占領した島津家は、念願だった豊後国を手に入れた。

●敗走
この戦で、豊臣勢は十河存保、長宗我部信親らの部将をはじめ、約1千が戦死。

仙石秀久小倉城に敗退し、その後讃岐国に逃げ戻ったが、これが豊臣秀吉の逆鱗に触れ、高野山へ追放された。