東北の関ヶ原、上杉と最上の死闘
長谷堂城の戦はせどうじょうのたたかい
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西暦 1600年10月
和暦 慶長5年9月
略図
(城郭辞典より)
関連する場所  出羽国羽前 山形城
 出羽国羽前 長谷堂城
 出羽国羽後 酒田城
 出羽国羽前 畑谷城
 出羽国羽前 上山城
 出羽国羽前 寒河江城
 出羽国羽前 白岩城(この辺り)
 出羽国羽前 谷地城
 出羽国羽前 長崎城
 出羽国羽前 山野辺城
 出羽国羽前 八沼城
 出羽国羽前 鳥屋ヵ森城
 出羽国羽前 朝日山城
 出羽国羽前 東禅寺城(酒田城)
 出羽国羽前 尾浦城
概要 ●家康の転進
1600年、会津の上杉景勝攻めに向かっていた徳川家康は、下野国小山で石田三成挙兵の知らせを聞き、従軍していた諸将にはかった上で会津攻めを中止し畿内へ転進することを決めた。

家康は会津を北の米沢口から攻めさせるべく、最上義光山形城南部利直秋田実季、戸沢政盛らを集結させていたが、家康の転進を受けて彼らも自領へ戻ってしまった。

また先に上杉方の白石城を攻略していた伊達政宗が、白石城を返上するという条件で上杉景勝と密かに和睦してしまったことから孤立した最上義光は危機感を募らせていた。
義光景勝に対して人質を出すなど恭順を装いつつも、秋田実季と共謀して上杉家家臣である志駄義秀の東禅寺城を攻め取ろうと画策、これが上杉方の知るところとなり、景勝は最上攻めを決断、家老の直江兼続を総大将とした2万5千の兵を米沢、庄内の2方面から山形へ向かわせた。
これに対することとなった最上義光は7千の兵しか持っておらず、しかも支城の畑谷城や長谷堂城などにも兵力を分散させなければならず、山形城には4000の兵しか残せなかった。

●畑谷城
山形城の西の拠点、畑谷城にはわずか500の兵が城将の江口光清とともに入っていたが、9月12日に進攻してきた直江兼続らに城を囲まれると、玉砕覚悟で討って出て敵兵約1000を死傷させるも力尽き、その日の内に落城となった。

●上山城
山形の南、約3里にある上山城もわずか500の兵がいるに過ぎず、9月17日、篠井康信、横田旨俊ら4000の攻勢を受けるものの、少ない兵を効果的に配すなどの戦略が功を奏し、上杉勢400を討つ大勝となった。

●庄内方面
山形の北東、庄内方面では朝日山城主の池田盛周等が一揆を扇動し上杉方の東禅寺城主、志駄義秀や尾浦城主、下秀久に対したものの打ち破られ、志駄義秀は最上川を遡り、また下秀久は月山、湯殿山近くの六十里越を経て進攻、山形の北に位置する寒河江城、白岩城、谷地城、長崎城、山野辺城などがまたたく間に落城した。

さらには山形の南西、白鷹方面から入ってきた直江兼続の別働隊が八沼城、鳥屋ヵ森城などを落とし、山形の北西約2里の山野辺で本隊と合流した。

●小野寺家の湯沢攻め
これら上杉勢の攻勢に乗じて、羽後横手城主の小野寺義道が最上家配下の湯沢城を攻撃するが、城将の楯岡満茂の善戦により落城には至らなかった。

●要害、長谷堂城
その後直江兼続は、城将、志村光安ら1000の兵が入っていた長谷堂城を包囲した。
長谷堂城山形城の南西2里にある比高85mの小さな山城だが、周囲を水堀や深田に守られた最上領内屈指の要害であり、平城の山形城を守る、文字通り最後の砦であった。
1万8000の大軍を擁す直江勢は多勢を頼んで9月15日から我攻めを行ったが、城側は地の利を活かすなど巧みに攻撃をかわし、翌16日には逆に城方の副将、鮭延秀綱らが上杉陣に夜襲を決行、150の兵を討ち取ることに成功した。

●援軍
そこに援軍が駆けつける。
伊達政宗の派遣した留守政景率いる3000が、山形城の東約半里の小白川に到着、また本城の山形城から最上義光も出陣、長谷堂城の北東約1里の稲荷塚(山形市深町)に布陣した。
ただし留守政景政宗から「最上軍には合流するな」と命じられていたと言われる。
これによりしばし膠着状態となったが、上杉勢は9月29日に総攻撃を開始、激戦となった。
上杉方は、朴の木屋敷の戦で新影流の剣豪、上泉泰綱を失った。

●敗報と撤退戦
丁度そのとき、関ヶ原において9月15日に石田三成の西軍が敗北したという報せが届き、直江兼続は一時自害しようとしたが、これを前田慶次郎に諌められて撤兵を決意した。

西軍敗れるの報は最上勢、伊達勢にも伝わり形勢は逆転、10月1日に米沢への退却を開始した上杉勢に対し最上勢は追い討ちを開始、長谷堂城の北、約半里の富神山一帯で激戦が繰り広げられ、戦死者は上杉方1580、最上方623にのぼった。また戦いのさなかで最上義光の兜に流れ弾が当るなどした。
直江兼続は自ら殿軍として畑谷城に残るなど奮闘しながら敵の猛追をかわし、10月3日に荒砥に至り、前田慶次郎や水原親憲などの活躍もあって翌4日には米沢に帰還した。

●最上家の挽回戦
その後最上義光は、谷地城に籠っていた下秀久を降して味方に付け、庄内の尾浦城や酒田東禅寺城(酒田城)なども攻め落とすなど、奥州仕置や大崎合戦の際留守を衝かれ上杉方となっていた出羽の諸城を取り戻すことに成功する。

また、徳川家康が後顧の憂いなく関ヶ原の戦に臨めたのは、会津の上杉勢を山形に留めさせた最上勢の働きによるところが大きいとのことから、最上義光は戦後33万石もの加増を受けることになる。