当主の座をめぐる今川家のお家騒動
花倉の乱はなくらのらん
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西暦 1536年
和暦 天文5年5月
周辺図
関連する場所  駿河国 花倉城
 駿河国 方ノ上城
概要 ●今川氏
将軍家の縁戚で駿河国守護である今川家の中興の祖、今川氏親が1526年に死没し、その後継には若い今川氏輝がついていた。
しかし今川氏輝は、1536年に24歳で急死。さらにすぐ下の弟、彦五郎も同じ日に死没してしまった。

●玄広恵探と承芳
今川氏輝にはまだ子がなかったため、氏輝の実弟(寿桂尼の実子)で仏門に入っていた承芳(後の今川義元)が後継者候補にあがったが、これに異を唱えたのが、氏親の側室(重臣、福島(くしま)氏の娘)が生んだ玄広恵探であった。

恵探は側室の子ながら承芳よりも年上であったため、今川家の家督を継ぐ権利があると主張、福島正成とともに、今川家のかつての本拠花倉城で挙兵した。

承芳は参謀の承菊(太原雪斎)の補佐を受け、重臣岡部親綱に恵探方の方ノ上城、花倉城を攻めさせ勝利、恵探は逃亡の末、普門寺で自害した。

●今川義元
承芳はその後今川家当主となり、将軍足利義晴から異例の「義」の字を拝領し今川義元と名乗る。

●ふたりの急死についての考察
今川氏輝は急死する直前、北条家の小田原城を訪ね歌会に参加していたこともあり、毒殺されたという説がある。
また、彦五郎の死因についても、常備薬を毒薬とすりかえられたという説がある。

しかしながら北条家関与説は、決め手となる理由に乏しい。

この頃甲斐国武田信虎は氏輝と敵対関係にあり、都留郡への侵入を許していたので、信虎が関与している可能性も捨てきれない。
事実武田信虎は、この花倉の乱の勝者となる承芳(後の今川義元)に味方し、戦後は今川家との和睦・同盟を果たしている。
その他