はじめての越山
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公開 2017/9/13 new 作:星野遊呆(「年表でみる戦国時代」「城郭辞典」 管理人)

越後の虎と呼ばれた上杉謙信は、実に10回以上も関東へ出兵している。
新潟から関東へ出るには、トンネルなどない当時は当然山を越えて来ることになる。「越山」と呼ばれたのはそのためである。故田中角栄氏の「越山会」も同じ理由から名付けられたという。

謙信が住んでいた春日山城は新潟県南西部、いわゆる上越に位置する。関東に出て来る際、長野を経由すると宿敵の武田信玄の領地を通ることになるので、東の中越へ向かってから三国峠などの山越えで群馬へ出るルートに限定されていた。

新潟の山間部は屈指の豪雪地帯なので、越山は春、夏、秋に行われたと思いきや、冬にも決行されたことがある。謙信の関東出兵は、ただの物見遊山などではもちろんなかった。

最初の越山は謙信が2度目の上洛を果たしたあとの永禄3年(1560年)で、謙信31歳、まだ長尾景虎と名乗っていた。織田信長今川義元を桶狭間で討ち取った年になる。

その頃の謙信の主要な敵は甲斐武田家と相模北条家であった。

甲斐の武田信玄と相模の北条氏康、そして駿河の今川義元は、6年前の天文23年(1554年)に結んだ甲相駿三国同盟のためにそれぞれの敵に専ら対することができ、その結果領土を拡大してきたが、今川義元の急死を受け武田信玄が一方的に同盟を破棄して駿河に攻め込んだ。
信玄はどうしても海が欲しかったと言われる。上洛して天下に号令するためには、自国の甲斐、信濃から出発して、途上の徳川、織田を攻め下す必要があったが、駿河さえ手に入れられれば、海路、畿内へ向かうことや兵糧の大量輸送も可能になるのである。

宿敵、武田信玄が南の今川家へ矛先を向けた機をとらえて、謙信はもうひとつの宿敵、北条家退治のために関東へ向かった。本拠の春日山を留守にしても信玄に攻め込まれることはない、という読みである。

謙信はまず、北条家の支配下となっていた要衝、厩橋城(前橋城)をはじめとする上州の諸城を攻め落とし、関東の諸豪を次々に従えた翌春には、北条家の小田原城を10万の大軍で包囲、堅城ゆえ落とせぬと悟るとすぐさまに包囲を解いて鎌倉へ向かい、鶴岡八幡宮で関東管領職と山内上杉家の家督を上杉憲政から正式に譲り受け、上杉政虎と改名し意気揚々と越後へ引き上げた。

その後12年の間に、謙信は計12回もの越山を行うことになる。

(終)

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