「岐阜」は「義父」
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公開 2017/8/16 new 作:星野遊呆(「年表でみる戦国時代」「城郭辞典」 管理人)

織田信長が美濃を支配下に置いた際、居城としたのは岐阜城である。
岐阜城は長良川を見下ろす金華山にある山城だが、それまでの城主、斎藤家のときまでは稲葉山城と呼ばれ、その城下町は井之口と呼ばれていた。

信長は自ら滅亡に追い込んだ斎藤家をはばかってだろうか、井之口の町を岐阜と改名した。
信長がそんなことをはばかるわけはない、という声が聞こえてきそうだが、話を進めたい。

古代中国の周の文王が「岐山」という山の麓の町に本拠を置いて、そこから天下を平定した、ということにあやかって、「岐」の「阜」(小高い丘)と名付けたことになっている。

これを提案したのは沢彦宗恩(たくげんそおうおん)というお坊さんで、彼はかつて信長の教育係を務めていたが、その頃には信長の傅役(もりやく)を長くつとめた平手政秀の菩提寺、「政秀寺」の住職となっていた。

ちなみに平手政秀は、あまりにも素行の悪い信長を諫めるために、あるいは、こんな信長に育ててしまった責任を取って、いずれにしろ自害して果てた一徹な老武士である。享年は62歳だ。

ここからは勝手な推理、というか妄想なのだが、管理人としては「岐阜」の本当の由来は「義父」ではないだろうか、と思っている。

信長が滅ぼした斎藤家最後の当主は斎藤龍興だが、彼の祖父でマムシの道三と呼ばれた斎藤道三は信長の義父だった。

道三は愛娘、濃姫(帰蝶)を政略により隣国の信長に嫁がせたが、のちに跡を譲った息子の斎藤義龍から攻め殺されてしまう。理由は義龍は道三の実子ではなく、道三が攻め滅ぼした美濃の元国主、土岐頼芸の子であることが判明したため、というのが定説である。つまり義龍は実父の仇である養父、道三を討ち果たしたのである。

道三と義龍がにらみ合いとなったことを知った信長は、義父を助けるため尾張から援軍に向かうが間に合わず、長良川の河原で道三は討ち死にしてしまった。

道三は元々、うつけな信長の元に濃姫をスパイとして嫁がせ、織田家中の情報を入手し、あるいは信長の寝首を掻かせて、尾張を併呑してしまおうと考えていた節があるが、実は信長はうつけなどではなく、戦国時代の申し子のような天才武将であったことがわかり、「俺の息子たちは、いずれ信長の門前に馬をつなぐようになる」、つまり信長の臣下となってしまうだろう、と言うほど、信長を高く評価していた。

先にも触れたように、信長は、傅役をあきれさせるほどの奇行を繰り返し、家臣たちのみならず実の母からも廃嫡を望まれるほどの「大うつけ」で通っていたが、義父の斎藤道三だけは本当の自分を見抜き、認めてくれているということを知っていた。
そんな義父がかつて居城とした稲葉山城を、そして井之口の町を、「義父」にちなんで「岐阜」と命名したと考えるのは無茶であろうか。

果たして第六天魔王、織田信長がそんな駄洒落みたいなことをするものか、というご意見もあるだろうが、彼は自分の息子たちの名前(幼名)を以下のように付けているのである。
奇妙な顔なので奇妙丸(織田信忠・本能寺の変で討死)、髪の毛が茶筌のような形なので茶筌丸(織田信雄・秀頼の策略にはまり失脚)、3月7日生まれなので三七丸(織田信孝・秀吉の謀略にはまり自害)など。

いかがであろうか。
(終)




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