国家統一を阻む勢力への容赦ない制裁
比叡山焼き討ち
ひえいざんやきうち
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
西暦 1571年
和暦 元亀2年9月
関連する場所  近江国 比叡山
略図
概要 ●揺れ動く畿内情勢
1570年6月、織田信長姉川の戦で北近江の浅井、越前国の朝倉の連合軍に勝利するが、その隙を狙って三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が畿内で挙兵した。

信長は、三好勢の籠る摂津国野田城、福島城を包囲するが、ここで石山本願寺法主顕如が信長に反抗(石山合戦)したことから、膠着状態となる。

さらに浅井、朝倉連合軍も京都へ向けて琵琶湖西岸を南下し、宇佐山の戦で織田方の宇佐山城を落城させるなどの動きを見せた。
比叡山はその際、織田方の使者の通過をさえぎる等、浅井・朝倉連合軍に味方した。

信長は、本願寺の包囲を一旦解き近江国へ向かい、9月に坂本に着陣すると、浅井・朝倉勢を攻め危機を回避した。
浅井・朝倉勢の多くは比叡山に駆け上がり、庇護下に逃れた。

●比叡山
比叡山延暦寺は都の丑寅(北東)に位置し、国家鎮護、仏教信仰の聖地として、これまでも武家からの支配を一切受けてこなかった。
山内には400を超える堂塔・坊舎があり、僧衆の修行の場とされていたが、実際には肉食、女色をむさぼるなどその生活は堕落しており、多くの僧衆は山麓の坂本の町で生活を送っていた。
また、大檀那である朝倉をはじめ、多くの信者大名と結びつき、僧兵を傭兵し、全国の一揆の後ろ盾になるなど、一大組織を形成していた。

このときも、新興勢力である織田信長など恐れるに足りず、と思ったにちがいない。

信長は浅井・朝倉勢の引渡しを比叡山に要求するが拒否される。

●信長、危機脱出
三好勢、本願寺勢、比叡山、浅井、朝倉と周囲を敵にまわして畿内の確保も危うくなったことから、信長は12月に至って将軍足利義昭に働きかけ朝廷からの勅許を得、浅井、朝倉との和睦に成功、双方兵を帰した。

元々信長包囲網構築をすすめた足利義昭だったが、和睦を斡旋することで将軍の存在感を示すことができると判断しての勅許奏請だったと思うが、信長を追い込む機会を自ら逃してしまった。(志賀の陣

●信長、再び動く
岐阜に立ち戻り軍備を整えた織田信長は、翌1571年1月早々、近江国横山城にいた木下藤吉郎(豊臣秀吉)に命じ、京都と北陸を結ぶ一切の交通を遮断させ、佐和山城には丹羽長秀を入れ岐阜と南近江の間の交通を確保した。

5月に、浅井、朝倉勢が北近江の一揆勢とはからい姉川あたりまで攻め寄せてきたが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)がこれに勝利。

8月、織田信長は岐阜から出陣し横山城に入城。その後越前国への牽制の意味から余呉、木之本周辺の焼き討ちを決行し横山城に戻り、さらに南下して佐和山城に入城。
その後南近江の抵抗勢力を次々に平らげ、瀬田の町に入る。

●比叡山焼き討ち命令
9月、織田勢は突如として坂本の町へ侵攻。驚いた町の年寄り衆は日吉大社(ひえたいしゃ)へ駆け込み相談の上、黄金判金500を信長に贈り許しを請うことを決めたが、信長はこれを許さず全山焼き討ちと僧俗全ての殺戮を命じた。

織田勢は坂本の町、日吉大社を焼き始め、僧衆や神官、坂本の町人たちは、日吉大社の神体山、八王子山頂へ逃れるが、織田勢に追い詰められ次々と殺害された。

山内の東塔の根本中堂、大講堂、阿弥陀堂、西堂の釈迦堂、にない堂、椿堂、さらには横川の横川中堂、四季講堂、恵心堂などの堂塔や坊舎はほぼ全て焼かれ、僧をはじめとするほとんどの人々、3000人以上が殺された。

焼き討ちの前、比叡山は聖域であり焼き討ちを実行すれば人心の離反を免れないと、明智光秀佐久間信盛、武井夕庵などが反対したが、信長は天下統一を阻む元凶としかみなさなかった。