将軍足利義輝を攻め滅ぼした三好勢
永禄の変えいろくのへん
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
西暦 1565年6月17日
和暦 永禄8年5月19日
関連する場所 GOOGLE MAP 山城国 二条御所(旧二条城)
周辺図
概要 ●三好長慶の死と将軍親政
1564年、畿内一の有力者となっていた三好長慶が死没し、子の三好義継がその後継となったものの、政治の実権を握ったのは長慶の家臣、松永久秀や三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)であった。

13代将軍、足利義輝はこの機を利用し政治の実権を取り戻すべく、各地の有力大名に官位を与えたり、大名同士の調停に介入したりという動きを始めた。

●御所攻め
これに危機感を抱いた松永久秀や三好三人衆は、清水寺への参詣を理由に1万の軍勢を京都に集める一方、御所へ赴き将軍に訴訟を行いたいと申し出て取次ぎ人を信用させ、にわかに御所の四方から鉄砲を放って攻撃を開始した。

御所内はたちまち混乱、将軍方の一色淡路守をはじめ家臣たちも抗戦、健闘したものの、多勢に無勢、御所内の30名ほど全員が討ち死にした。

足利義輝も最後まで抗戦し、所持していた銘刀を何本も床に突き立て、刃こぼれがするたびに刀を取替えながら、塚原卜伝直伝の剣法を駆使し多くの敵を討ち取ったという。

これを受けて足利義輝の生母、慶寿院は自害、正室(近衛稙家の娘)は実家である近衛家へ送られ、義輝の子を身籠っていた側室の小侍従(進士晴舎の娘)は三好勢に殺害された。