緒戦勝利の油断が招いた里見氏の大敗
国府台合戦(第二次)
こうのだいかっせん(だいにじ)
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西暦 1564年
和暦 永禄7年2月
略図
関連する場所  下総国 国府台城
 上総国 久留里城
 上総国 池和田城
 上総国 秋元城
概要 ●北条対上杉・太田・里見
1538年の国府台合戦(第一次)に勝利した北条家の勢力は、相模国武蔵国に加え下総国までに及んでいた。

一方敗北した里見家は、真里谷家の弱体化に付け入って房総半島における勢力を伸ばし、さらには関東管領職を受け継いだ越後国上杉政虎(謙信)と結んで北条家に対していた。(房越同盟)

●太田康資の反旗
1562年、北条家の臣下についていた江戸城代の太田康資が、恩給の不満から北条氏康へ反旗を翻した。
太田康資は、すでに上杉政虎(謙信)に寝返っていた同族の太田資正岩付城主)を通じて、上杉家に寝返ろうとしたのであるが失敗に終わり、江戸城を出て太田資正の元へ走った。

●北条の太田攻め
北条氏康武田信玄(晴信)と結んで武蔵松山城を攻め落とし、さらに太田資正の岩付城へ向かった。

上杉政虎(謙信)は、武蔵国における数少ない味方である太田資正太田康資の救援のために、厳冬にも関わらず越山(関東への出兵)を決め上野国へ向かうとともに、安房国上総国下総国の支配者、里見義尭にも出陣を命じた。
この出陣命令は、北条家への対抗だけでなく、上杉勢への兵糧確保も目的のひとつになっていた。
里見義堯の嫡男で、家督を相続していた里見義弘が、1万2千の大軍で江戸川沿いの国府台城に入った。

●国府台
玉縄城北条綱成率いる北条軍は江戸城に入り、上杉政虎(謙信)と里見勢の挟み討ちを避けるため、2万の軍勢ですぐに出陣する。
しかし、国府台城を東南に望む、がらめきの瀬(現在の矢切の渡付近)に着陣した、先鋒、遠山綱景と富永直勝(ともに江戸城代)が、里見義弘の策略にはまり深追いししたことから反撃に遭い大敗、しかも両将は戦死してしまう。

この勝利に気を良くした里見義弘だったが、退却したはずの北条綱成率いる本隊に翌日の未明急襲され、不意を衝かれ大混乱に陥り戦死者5千を出す大敗となり、安房国へ逃げ戻った。

北条勢は、勢いに乗じて里見家の上総国へ攻め込み、池和田城や秋元城を落とし、さらには一時的ではあるものの里見家の本城、久留里城の奪取にも成功するのである。
その他