織田勢5万の伊賀での大殺戮
天正伊賀の乱(第二次)
てんしょういがのらん(だいにじ)
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西暦 1581年
和暦 天正9年9月
略図
場所  伊賀国 平楽寺(のちの伊賀上野城
 伊賀国 比自山城
 伊賀国 柏原城
概要 ●本願寺との和睦
1579年、織田信長の二男で、伊勢国の北畠家に養子に入っていた北畠信意(信雄)が行った伊賀国平定戦は、信雄の稚拙な戦術により失敗していた。(天正伊賀の乱(第一次)

その間信長は、和睦により、長年の宿敵だった石山本願寺との抗争に終止符を打っていた。
武田、毛利、上杉と強敵は残ってはいるが、各個撃破してゆけば問題ないと、信長は考えていたに違いない。
その前に伊賀国である。

●伊賀攻めの決断
1581年9月、信長は伊賀国攻めを決断した。
率いる兵力は5万。本願寺との抗争終結により、それだけさける余裕があったのである。

総大将である北畠信意(信雄)の1万の軍勢は、伊勢路を進み伊勢国中央の青山峠越えで、滝川一益丹羽長秀の1万2千の軍勢は、伊賀国北東の柘植口から侵攻。
その他、蒲生氏郷堀秀政も各方面から伊賀国へ侵入、筒井順慶も笠置口と笠間口に布陣し、大和国方面への退路を封鎖した。

●大殺戮
北畠信意(信雄)の率いる1万の軍勢は青山峠越え、敵の防衛線を突き破ったあとで3隊に別れ、信雄の本隊は木津川沿いを侵攻、左翼隊を国見山方面へ、右翼隊を北の比自岐へ向かわせ、村々を焼き討ちに、領民は見つけ次第ことごとく殺戮した。

その他の方面も織田方の大軍の乱入を受け、伊賀国の住民8万の内、約3万が一日で殺戮された。

伊賀勢は、各個撃破に対抗すべく、拠点である上野の平楽寺と、その西2kmほどの比自山城に終結する。
平楽寺には1200が、比自山城には3500が集まった。

平楽寺は、後に伊賀上野城が築かれる小山の上にあり、周囲に土塀を廻らせていた。

●蒲生勢
伊賀勢は、織田勢の意表をつき夜討ちを決行した。
無謀にも河原で野営していた蒲生氏郷が狙われた。昼間の戦に疲れて眠っている蒲生勢は暗闇の中突如襲撃され大敗となった。
この夜討ちで400人近くの兵を討たれた蒲生氏郷は、翌朝平楽寺への力攻めを敢行するが、またもや苦戦に陥り、滝川一益勢の助勢を受け辛くも平楽寺の兵を掃討した。

●比自山城
その後織田勢2万は、残る伊賀勢の拠点、比自山城に攻め上がった。
比自山城は長田丸と朝屋丸、ふたつの曲輪を中心とした山城であり、伊賀勢は地形を利用したいくつもの仕掛けを用意しており、織田勢はここでも苦戦、数千の兵を討たれその日は兵を退いたが、大軍に包囲された伊賀勢は数日後密かに城から退却した。

●柏原城
難攻不落な比自山城が落とされ、最後の砦ともいうべき柏原城に1600の伊賀勢が終結、抵抗を見せたが、食料も尽きた10月28日、織田勢との和議に及び開城、ここに戦は終わりを告げた。

総大将の北畠信意(信雄)伊賀国に来た織田信長から賞賛され、阿加郡、名張郡、阿拝郡を加増され面目を施した。