房総半島をめぐる諸豪の戦い
国府台合戦(第一次)
こうのだいかっせん(だいいちじ)
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西暦 1538年
和暦 天文7年10月
略図
関連する場所  下総国 国府台城
 下総国 相模台(戦場)
 下総国 小弓城
 上総国 真里谷城
 上総国 峯上城
 上総国 久留里城
 上総国 大多喜城
概要 ●房総の情勢
古河公方家で起こった御家騒動(永正の乱)は、当主の足利高基とその父で先代の政氏が、家宰(家老職)の上杉家をめぐり意見の不一致を起こしたことが端緒である。

この騒動に輪をかけるように、僧籍にあった高基の弟、宗済が還俗して足利義明と名乗り、古河公方家に対立する事態に発展した。

これを支援したのは、上総国真里谷城主、真里谷信勝で、1518年下総国小弓城にいた古河公方方の千葉家を攻め城を奪い取った。

小弓城に入った足利義明は、小弓公方を称した。

●真里谷家の内乱
1534年、足利義明を支援していた真里谷家当主の信清が死没すると、真里谷家にも御家騒動が起こってしまう。
信清の後継者の信隆(庶子)と、その弟で正室の子である信応の相続争いであった。

足利義明は信隆を追放し、実弟の真里谷信応を当主とすることで真里谷家を配下に組み入れ、さらには、安房国里見義堯とも同盟するなどその勢力を増大させ、江戸湾一帯の平定から鎌倉制圧までを企図した。

追放された真里谷信隆は上総国の峯上城に入り再起を期すが、1537年5月、真里谷信応に攻められ峯上城が落城、武蔵国金沢へと落ちた。

●関東の風雲(北条氏の野望)
その頃、北条早雲を継いだ相模国小田原城主の北条氏綱は、1537年に扇谷上杉家の拠点河越城を攻略するなど(河越夜戦)、着々と武蔵国へ進出していた。
氏綱の狙いは何といっても父、早雲の悲願であった関東管領職の奪取であった。

●対立の構図
古河公方足利晴氏は、姻戚関係のあった北条氏綱に支援を求めた。

これにより南関東における対立の構図が確定し、古河公方足利晴氏北条氏綱対、小弓公方足利義明、真里谷信応、里見義堯となった。

●相模台(下総国)の激突
1538年、北条氏綱は嫡男の北条氏康、弟の北条長綱らを従え2万の軍勢で江戸城に入り、一方の足利義明も、里見義堯、真里谷信応らとともに1万の軍勢で下総国国府台城に入城し対峙した。
国府台城は、下総国武蔵国の間を流れる江戸川の東にあった。

足利義明は軍議の席で、小弓公方である自分に対し北条方が本気で挑んでは来ないだろうと言い張り、渡河中ではなく敵が渡河してきてから討つ作戦を選んだ。
これに対して里見義堯は、そんあな甘い考えでは敗北は避けられないと思ったが、相手が公方であり反対意見は通らないことから、別行動をとることで巻き添えを避けようと決意した。

両者は国府台城のすぐ東の台地、相模台地で激突した。

戦況は小弓公方方が緒戦優勢であったが、多勢に頼む北条勢が次第に有利となった。
劣勢を挽回すべく自ら突撃を開始した足利義明だったが、北条方の弓の名手、横井神助により射殺され、これにより軍勢は敗走した。

●北条家と里見家の勢力拡大
勝利した北条氏綱は、勢いに乗って小弓城を攻略、さらには真里谷城を攻略すると真里谷信隆を再び真里谷家当主に据えた。

これにより北条家の勢力は、相模国武蔵国に加え下総国までに及ぶところとなった。

一方、安房国里見義堯にとっては、真里谷家の弱体化により空白地帯となった上総国南部に進出する機会となり、真里谷家の配下だった久留里城大多喜城などを攻略、房総半島での勢力を拡大してゆく。
その他