信長の二男が起こした無謀な伊賀攻め
天正伊賀の乱(第一次)
てんしょういがのらん(だいいちじ)
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西暦 1579年
和暦 天正6年9月
略図
場所  伊賀国 丸山城
概要 ●伊勢北畠家の養子
1570年、大河内城の戦で勝利し伊勢国を平定した織田信長は、名家北畠家に自分の二男、茶筅丸を養子として送り込み、北畠具豊(信意)(織田信雄)と名乗らせ、伊勢方面軍司令官とも言うべき実質的な大将には、重臣の滝川一益を付けて万全を期した。

伊勢国ではその後、長島において一向一揆が盛んになったが、1574年には織田信長の指揮による織田水軍の活躍もあって平定された。(伊勢長島攻め(第三次)

前後して織田信長は、越前国の朝倉家、近江国北部の浅井家を滅亡させ、東海から畿内までを掌握するに至っていた。

●丸山城
このような情勢の中、伊勢国を任せられた北畠信意(信雄)滝川一益は、隣国である伊賀国の攻略を開始し、1578年、神戸に拠点となる城(丸山城)の大修築を行い、3層の天守をあげた。

伊賀国は、古くから多くの小豪族に分かれて領土を支配し、合議制による政治を行うなど、中央からの干渉を排してきた国であり、織田家の意図が伊賀国の併呑にあることに気づいた豪族たちは、真っ向から対立姿勢を見せ、百田藤兵衛ら土豪の攻撃を受け丸山城は落城、城主の滝川一益は追い出された。

●稚拙な伊賀攻め
翌1579年、北畠信意(信雄)は1万の兵を率いていよいよ伊賀国平定戦を起こす。
しかし、事前工作が充分になされないままだったことや、伊賀国の山岳地帯の地の利を活かした豪族たちの反抗にあって、開戦の翌日には6千もの兵を討たれるという大敗を蒙り、伊勢国へ逃げ戻って行った。

北畠信意(信雄)のこの勝手な単独行動と大敗を知った織田信長は、烈火のごとく信雄を叱責した。

伊賀国は2年後の1581年、織田勢5万の大軍の侵攻により平定されることになる。
天正伊賀の乱(第二次)