秀吉の唐入りの夢への前哨戦
文禄の役ぶんろくのえき
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西暦 1592年〜
和暦 文禄元年 4月〜
略図
場所  肥前国 名護屋城
概要 豊臣秀吉は全国統一後の事業として、かねてから夢見ていた明を日本の領土にすべく、1592年4月、その手始めとして朝鮮への侵攻を開始した。

この出兵の理由については、巨大化した軍事力を持て余したことや、史上初めて日本を統一した自信と、明や朝鮮についての情報があまりにも少なく、攻略の可能性を安易に考えたことなどがあげられる。

九州平定後秀吉は、対馬国宗義智に命じて明への道案内を朝鮮にさせるよう交渉させたが、明の属国である朝鮮はこれを無視した。
これを受けて秀吉は、まずは朝鮮を征服しそのまま明へ討ち入ることにしたのである。

●名護屋城
出兵の拠点は、前年1591年に肥前国に築いた名護屋城である。
築城の奉行は、加藤清正寺沢広高

●渡海
動員兵数16万人という壮大な軍事計画であった。
先鋒は、小西行長宗義智有馬晴信など九州西部の大名たち。
第二陣は、加藤清正鍋島直茂など、九州中部の大名たちが選ばれた。

先鋒は秀吉の命を受けまずは対馬に渡り、朝鮮と最後の交渉を行うが決裂、4月12日に対馬の大浦から700隻以上の船に1万9千の兵を分乗させ、その日の内に釜山(慶尚道)に上陸した。

翌朝釜山城に攻め込んだ第一陣は、瞬く間に城兵1200を討ちとる大勝を果たし、さらに北上し、諸城を落とす勢いを見せた。

続いて4月17日に釜山に上陸した加藤清正鍋島直茂らの第二陣は、第一陣の東を北上し、20日には古都慶州(慶尚道)を落とし入れ、さらに北上を続けるという快進撃を見せた。

4月18日に釜山に上陸した黒田長政大友義統らの第三陣は、第一陣の西を北上した。

そのあとに続いたのは第四陣島津義弘、毛利吉成など、第五陣福島正則長宗我部元親蜂須賀家政など、第六陣小早川隆景小早川(毛利秀包)立花宗茂など、第七陣毛利輝元、第八陣宇喜多秀家、第九陣羽柴秀勝細川忠興などであった。

5月2日、第一陣と第二陣が、朝鮮半島中央部にある、首都漢城(京畿道)に攻め入ったが、国王はすでに首都から離脱したあとだった。

この後、漢城には宇喜多秀家が残り、第一陣は国王を追って、半島北部の平壌(平安道)に向い、第二陣は東海岸沿いを北上することになった。

7月になると、加藤清正らの勢いに恐れをなした朝鮮側が、ふたりの王子を拉致し、それを手土産に日本側に降伏してきた。

●苦戦
しかし5月から乗り出してきた李舜臣率いる朝鮮水軍が、亀甲船による海戦で優勢を勝ち得、海上をことごとく制圧したことから、日本軍の補給は効率の悪い陸路に頼ることになり、その結果各戦線で兵糧不足となった。
さらには朝鮮国民の義兵の決起もあって、状況はますます悪化し始めた。

秀吉は督戦の奉行として、石田三成増田長盛大谷吉継を渡海させるが、7月には、占領していた平壌を朝鮮軍に包囲され、漢城との連絡がとれなくなったことから、明との和平交渉を行うことが決まった。

そんな折、秀吉の母、大政所が危篤、という情報が名護屋にもたらされ、秀吉はあわてて京都へ戻っていったが間に合わず、大政所は7月29日に京都の聚楽第で他界した。

母の葬儀を終えた秀吉は、京都の伏見に自らの隠居城を築くことを決定したが、10月、再びに名護屋に戻ってきた秀吉にもたらされた朝鮮の戦況ははなはだ厳しく、総司令の宇喜多秀家が今年の進軍は平壌までにとどめることを決定した、という連絡を黙って受け入れざるを得なかった。

翌1593年1月早々、小西行長ら1万5千が立てこもる平壌城が、10万近い明・朝鮮の連合軍に攻め立てられ、その日の内に城を捨てて退却した。
200q以上の距離を厳寒と飢餓の中逃げに逃げた小西勢は、10日ばかり後に漢城にたどり着いた。

●碧蹄館の戦
宇喜多秀家は諸将と協議の上、各地にいる軍を一旦この漢城に集め、総勢城を打って出て明軍との決戦を行うことを決定した。

1月末、両軍は漢城の20kmほど北の碧蹄館の盆地で遭遇し激戦となった。
明軍は臨津河の渡河に難儀し、兵数が2万ほどに激減していたこともあり、数で有利な日本軍が優勢となり明軍は退却、その際総司令、李如松が落馬するなどの混乱ぶりであった。

碧蹄館の戦により明軍の李如松は戦意を消失したが、日本軍も兵力と兵糧の欠乏により士気は上がらず、諸将は血判状をしたため、名護屋にいる秀吉に窮状を訴えた。
これを受けて秀吉は、漢城から退却して南東部の慶尚道南部の晋州城攻略に専念するように命じた。
明との和議を有利に行うためにも、晋州城の攻略が不可欠だと考えたためである。
しかし晋州城の攻略は難しいことを諸将は知っており、秀吉の命令は半ば無視された形となった。

●和議交渉
そんな中、明から和議交渉役が現れ、小西行長石田三成増田長盛大谷吉継の奉行がその使節を名護屋に伴ってきて、5月15日に秀吉と対面させた。

秀吉は朝鮮8道を北と南に4道に分け、それを明と日本で分け合うという無理難題を言い出すが、とにかく小西行長に全権を与え和議交渉をさせることが決まった。
石田三成らの奉行は、この戦を少しでも早く終結させようと考えており、和平派の小西行長を前面に押したてることとしたのである。

和議交渉は始まったが、朝鮮における戦いを終わらせるわけにはいかず、6月29日、懸案となっていた晋州城を攻め落とすことに成功。

8月には、秀吉側室の淀殿が二人目の男児(拾い=豊臣秀頼)を出産し、早くその顔を見たいことや、明との和議交渉には時間がかかることが予想されることから、秀吉は朝鮮在陣の兵に対して帰国を許した。
そして11万ほどの兵の内、諸城の守備兵5万ほどを残し、6万を年内に帰国させることが決まった。

●講和失敗
明の使節、沈惟敬と小西行長が講和を早く成立させるために共謀し、明には日本が降伏したと報告、また秀吉には明が降伏したと報告した。
それが1596年9月大坂城での秀吉と明の使節との会見で発覚し、秀吉は激怒、交渉は決裂。

これにより、秀吉は慶長の役(第二次朝鮮出兵)を決断する。