高さ7m長さ3kmの堤で川をせき止めた
備中高松城水攻め
びっちゅうたかまつじょう みずぜめ
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西暦 1582年
和暦 天正11年5月
略図
場所  備中国 備中高松城
写真
高松城跡


蛙ヶ鼻突端に残る水攻め築堤の一部 
概要 ●難航不落の高松城
羽柴(豊臣)秀吉織田信長の命で中国攻略を行っていたが、備中高松城に籠る清水宗治を攻めあぐねていた。

高松城は平城だが、沼や田に囲まれた自然の要害にあり、城へ通じる道も1本しかなかったこともあり、3万の軍勢で囲みながらラチが開かない状況を打破するため、秀吉の軍師黒田官兵衛の提案で、水攻めを行うことになった。

●巨大堤防
12日間の突貫工事で、高さ7.2m、下底24m、上底10m、長さ約3kmという堤を造り、西を流れる足守川をせきとめ、梅雨時の大雨が降ったことから堤の完成から数日で高松城を水浸しにすることに成功。

工事に使った土嚢は、近隣の農民などから高い代価で買い取った。
また工事の人夫は2千人。

清水宗治の援軍として、吉川元春らが遠巻きにし、秀吉軍とにらみ合いを続けていたが、こう着状態は続き、毛利家の使僧安国寺恵瓊を仲介とした和睦交渉も進められていた。
毛利家としては、織田家の背後にいた甲斐武田家が滅ぼされた今、織田家との抗争継続は滅亡につながることを痛感しており、何とか円満に兵を退きたいと考えていたのである。

●信長死すの情報
ここで大事件が起こった。
6月3日、本能寺の変織田信長死すの情報が秀吉に入ったのである。
これは、毛利方へ情報を伝えるはずの密使が秀吉方に捕らえられたためといわれている。

秀吉は、この情報が毛利方へ流れないよう徹底した上、毛利家の五ヶ国(伯耆国美作国因幡国備中国備後国)割譲と、高松城主、清水宗治の切腹を条件に和睦を持ち掛け成功した。

●湖上の切腹
清水宗治は、翌6月4日の昼に、湖と化した川に船を漕ぎ出し、船上で切腹。
宗治の兄で僧の月清入道など合計3名も殉職した。

月清入道は本来であれば清水家を相続する立場にあったが、武家の当主としては柔弱であることを理由に出家していたのである。

また、毛利家から高松城の軍監として入城していた末近信賀(佐衛門)も清水宗治に殉じた。

切腹を前に、秀吉は酒肴を宗治に贈り、最後の宴を許したという。
宗治の検死には、秀吉配下の蜂須賀正勝堀尾吉晴があたった。

羽柴(豊臣)秀吉は城の囲みを解くと杉原家次を残し、6月6日の夕方、信長の仇を討つために京都へ向かう。(中国大返し
そして明智光秀山崎の戦で対戦する。