画像 |
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誕生 |
1561年(永禄4年) |
生誕地 |
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父 |
二階堂盛義 |
母 |
阿南姫(伊達晴宗の娘) |
名 |
平四郎、蘆名盛隆 |
官名 |
左京亮、三浦介 |
近親など |
正室:彦姫
子:亀王丸、江戸崎御前(相馬利胤の正室)
養子:小杉山御台(蘆名盛興の娘、蘆名義広の正室)、岩瀬御台(蘆名盛興の娘、佐竹義宣の側室) |
ゆかりの地 |
陸奥国岩代 須賀川城
陸奥国岩代 黒川城(会津若松城) |
略歴 |
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●二階堂家 |
1561年 |
1歳 |
須賀川二階堂家、二階堂盛義の嫡男として生まれる |
1564年 |
4歳 |
父、二階堂盛義が家督を相続 |
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●人質 |
1566年 |
6歳 |
父、二階堂盛義が会津の蘆名盛氏、盛興父子に攻められ降伏、臣下についたことから、人質となって黒川城に入る |
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●蘆名家相続 |
1574年 |
14歳 |
蘆名家当主の蘆名盛興が死没。盛興には子がなく、人質となっていた盛隆が蘆名氏を相続し、蘆名盛隆と名乗る。これにより、二階堂氏は勢力を挽回 |
1579年 |
19歳 |
敵対してきた田村家が、伊達政宗と婚姻関係に |
1580年 |
20歳 |
隠居の蘆名盛氏が死没。これにより蘆名家の実権を掌握 |
1581年 |
21歳 |
実父、二階堂盛義が死没 |
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●越後 |
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越後国で新発田重家の乱が起こると、伊達輝宗とともに反上杉景勝派に味方し新潟津を支配 |
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この頃、織田信長に誼を通じる |
1584年 |
24歳 |
出羽三山の東光寺に参詣している際、栗村盛胤、松本行輔らに一時黒川城を占拠されるが、すぐに平定 |
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長沼城主の新国貞通(栗村盛胤の実父)を攻め降す |
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●最期 |
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黒川城内で、寵臣、大庭三左衛門に斬り殺される |
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死没 |
1584年11月8日(天正12年10月6日) (享年24歳) |
レクイエム |
盛隆は、城内で鷹を愛でていたところを突然斬られた。大庭三左衛門は美童で知られた盛隆の寵童だったが、男色のもつれで主を襲ったといわれる。
この後蘆名氏は1歳の亀王丸が相続するが3歳で夭折、佐竹氏から当主(蘆名義広)を迎えることになる。
その蘆名義広も、摺上原の戦で陸奥統一を狙う伊達政宗に大敗、蘆名氏は滅亡する。 |