毛利元就立身のきっかけ、西の桶狭間
有田中井手の戦
ありたなかいでのたたかい
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
西暦 1517年
和暦 永正14年10月
略図
関連する場所 GOOGLE MAP 安芸国 佐東銀山城
 安芸国 有田城
 安芸国 多治比猿掛城
 安芸国 吉田郡山城
概要 ●安芸の状況
1508年に足利義尹(義稙)を奉じて上洛し、義尹を将軍職に復帰させることに成功した周防国の太守大内義隆は、支配下の安芸国で起こった紛争に気をもんでいた。

当時の安芸国には30以上の小豪族が点在し、西の大内家、東の尼子家の二大勢力にはさまれた緩衝地帯であったが、厳島神社の神主をめぐる後継者争いが起こり、これに山陰の太守、尼子経久が介入し揺さぶりをかけていた。

大内義隆は、名族である安芸武田家をも支配下においていたが、その武田元繁にこの紛争の平定を命じ、自らも急ぎ京都から安芸国へ戻った。

●武田元繁
しかし野心家である武田元繁は、この機に乗じて大内家に奪われていた安芸国における勢力を挽回することを決意、正妻(飛鳥井氏・大内家の養女)を離別し、尼子経久の後ろ盾の元、安芸国内での活動を始め、1515年頃までに山県郡の壬生家、有田家、今田家らを糾合した。

●有田城
これを知った大内義隆は支配下の毛利興元に命じ、武田方となった有田城を攻めさせ奪回に成功、有田城は再び大内方となった。

2年後の1517年2月、武田元繁は熊谷元直、香川行景、己斐宗瑞といった国人衆を味方に得、1万5千の兵力で佐東銀山城から出陣北上し、山県郡今田に着陣すると、北東約1里にある有田城を包囲した。

このときの有田城主は大内義隆の娘を正室にしていた小田信忠であり、信忠は尼子氏の後ろ盾を得た武田元繁に対して徹底抗戦の構えを崩していなかった。

●猿掛城と元就初陣
有田城をなかなか落とせず苛立つ武田元繁に対し熊谷元直は、1.5里(約6km)ほど東にある毛利家の支城、多治比猿掛城攻めを提案、10月21日、2500の兵で多治比へ向かい城下に放火した。

これに対し、多治比猿掛城主の毛利元就は150騎の寡兵で城を打って出ると、早々と敵将のひとり一条正義を討ち、その後退くと見せかけ熊谷元直を自陣深く導き入れ、伏せてあった多数の兵で囲ませ300の兵を討ち取る大勝利を得た。これが元就の初陣であった。

●中井手
そして毛利元就は毛利勢3000、吉川勢1500を率いて有田城救援に向かった。
その報を受けた武田方はこれを東の中井出の地で迎え撃つべく、熊谷元直率いる500騎を派遣した。

毛利元就は、総勢の中から500ほどの兵を割いて有田城へ向かわせ、残り4千の大軍で中井出の敵陣を攻め始めた。

このとき武田元繁は、有田城に向かってきたのが毛利の本隊と思い違いをし、中井出への援軍を送らなかった。これが仇となった。

翌22日早朝、攻撃を開始した毛利勢は多勢を駆って散々に敵勢を蹴散らし、熊谷元直を討ち取る大勝利となった。

●決戦
熊谷元直の戦死を知った武田元繁は、毛利勢との決戦のため有田城の包囲に700ほどを残し、4000の軍勢で城の南を流れる又打川の北岸に布陣した。

毛利勢は2000ほどでこれに対し決戦が始まったが、武田元繁が流れ弾に当たり戦死したことがきっかけに、数に勝る武田勢は総崩れとなった。

この戦は西の桶狭間と呼ばれ、毛利元就の名声を高めるとともに安芸国での勢力図を大きく変えた。
その他