信長を裏切った、摂津方面軍司令官
荒木村重あらき むらしげ
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誕生 1535年(天文4年)
生誕地 摂津国 池田
荒木信濃守義村
  
十二郎(幼名)、弥介、弥助、村重、道糞、道薫
官名 従四位下、摂津守
近親など 正妻:だし(中川清秀の妹)
子:荒木村次、岩佐又兵衛など
ゆかりの地  摂津国 茨木城
 摂津国 有岡城(旧伊丹城)
 摂津国 大物城(旧尼崎城)
 摂津国 花隈城
略歴
●摂津
1535年 1歳 摂津国の池田家(池田城主)家臣、荒木信濃守義村の子として生まれる
その後、父同様に池田氏に仕える
1568年 34歳 織田信長が上洛すると、主君、池田勝正が信長に臣従。(信長の上洛戦
花隈城を築城し居城に。(異説あり)
1570年 36歳 三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と手を組み、主君で池田城主の池田勝正を追い出し、勝正の弟、池田知正を傀儡として擁立し、池田家の実権を握る
1571年 37歳 摂津国守護、和田惟政や茨木重朝を討ち取る
●信長配下
1573年 39歳 上洛途上の織田信長を、逢坂に出迎え臣従
足利義昭攻めで貢献
1574年 40歳 池田知正、伊丹親興を攻め降し、摂津国の攻略に成功
そのまま摂津国一国を拝領
伊丹城を有岡城と改名、居城として大改築
織田家の摂津方面軍の司令官に
1576年 42歳 信長の本願寺攻め(石山合戦)に参加した際、援軍の毛利水軍に大敗し、信長の怒りをかう
●信長への反逆
1578年 44歳 信長の命令で、石山本願寺の顕如と和睦交渉を行うが失敗。さらに、配下の中川清秀の家中の者が、顕如から切望され百石の兵糧を渡してしまう
播磨国で苦戦していた羽柴(豊臣)秀吉の援助を命じられるも、躊躇したような行動をとる
信長に村重謀反の報が届き、明智光秀や配下の高山右近、さらには信長の祐筆松井友閑が説得にあたるが変心せず、そのまま有岡城に籠城
説得にきた秀吉の軍師黒田官兵衛も幽閉する。(有岡城の戦)
1579年 45歳 単身で有岡城を抜け出し尼崎城(大物城)に入り、自ら毛利の援軍を迎えに行く決意をするが城を囲まれ脱出できなくなり不首尾に終わる
当主のいなくなった有岡城は混乱し、敵の入城を手引きする裏切り者が現れ落城
落城後も、支城の尼崎城(大物城)と花隈城にて抵抗
田信長から、「降伏するなら有岡城の人々は助ける」と言い渡されるがこれを拒否。激怒した織田信長は、城内にいた村重の一族や家臣700名近くを処刑
●入道
1580年 46歳 備後国尾道に毛利家を頼って逃れる。剃髪し道糞と号す
1582年 48歳 本能寺の変で信長が死没
その後、天下統一を遂げた豊臣秀吉に茶人として招かれ道薫と改名し、堺に住み茶人千利休の弟子となり、のちに利休七哲のひとりに
1586年 52歳 堺で死没
死没 1586年6月20日(天正14年5月4日) 享年52歳
レクイエム 織田家の摂津方面軍司令官として、織田信長の信頼も厚かったため、謀反は織田家に衝撃を与えた。信長ははじめ全く信じなかったといわれている。

本願寺住職の顕如に糧食を与えたことが、信長の怒りをかわないはずはない、と思いつめての謀反だったと思われる。

子供の頃、碁盤に父を乗せて持ち、座敷を一回りしたというほどの怪力の持ち主だった。