11段まで破られた織田軍の逆転勝利
姉川の戦あねがわのたたかい
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西暦 1570年
和暦 元亀元年6月
略図
関連する場所  近江国 姉川の戦場
 近江国 小谷城
 近江国 虎後前山城
 近江国 横山城
 近江国 苅安城
 近江国 長比城
写真
古戦場跡の碑


戦場となった姉川の川原
(橋の向こうの山が、小谷城の支城、横山城)
概要 ●岐阜での再起
越前国の朝倉討伐に向かう途中、妹婿の浅井長政の裏切りにあい、京都に逃げ戻った(金ヶ崎の退き口織田信長は、岐阜に戻り体制を整えなおし、2万5千の軍勢で出陣。

●北近江への進出
その間浅井・朝倉方も防御強化のため、岐阜への長比城(たけくらべ)、苅安城などに兵を入れるが、城将の堀秀村や樋口直房が織田方に寝返ってしまう。

これに乗じ北近江へ難なく進出した信長は、6月21日、浅井長政小谷城のすぐ南にある虎御前山に本陣を置き、小谷の城下町を焼くなどの挑発を行うが、浅井方は動かない。

6月22日、信長は、朝倉義景勢が小谷城の北、木之本に集結しつつあるとの情報を得、このままでは小谷城の支城である横山城の大野木茂俊から背後をつかれる恐れがあることから、横山城への攻撃を先に行うこととし、姉川を渡り龍ヶ鼻へ移動を開始。

これを見た小谷城では、当主の浅井長政や家老の遠藤直経(喜右衛門)が、「勝負はこの時しかない、織田勢を一挙に急襲すべし」と主張するが、長政の父浅井久政は朝倉軍の援軍を待ってからにすべきと主張し、これが通る。

しかし浅井方の強行派、約1千が制止を聞き入れず城から出て追い討ちをかけるが、無策だったがゆえに、あえなく織田勢に討たれてしまう。

●家康到着と姉川布陣
6月26日、無事に陣替を完了し横山城を包囲した織田信長に、三河国から徳川家康の援軍5千が合流。

6月27日、浅井・朝倉軍が小谷城の南方、姉川の北に集結、織田・徳川方も川を挟んで対峙。

評定で信長は、徳川家康に、援軍でもあり危険な前面を避け遊軍を任せると申し付けるが、家康はこれを聞き入れず、結局朝倉勢の正面を任せた。

また織田勢は全軍を縦長の13段に分け布陣。

●姉川の戦
6月28日早朝、朝倉勢が川を押し渡り徳川勢の先鋒酒井忠次隊と激突し、開戦となった。

浅井勢は織田勢に比べ少勢であったことから、織田勢の正面から突撃を開始、先鋒の磯野員昌は精鋭を引連れ、織田方の先鋒坂井政尚(右近)隊、第二段の池田恒興隊をけちらし、第三段の木下藤吉郎(豊臣秀吉)隊に襲い掛かる。
木下隊では蜂須賀正勝(小六)らが奮戦したが、これも破られ、第四段の柴田勝家隊までも突き破られた。

その後浅井勢は、織田勢の13段構えの11段まで突破したともいわれるが、稲葉一鉄徳川家康の救援により形勢は逆転。

浅井方の遠藤直経(喜右衛門)は、最後の賭けとばかりに、倒れた味方の首を下げ織田方の将になりすまし信長を討ち取ろうと近づくが、顔見知りだった竹中半兵衛(重治)の弟、竹中久作(重矩)に見破られ討ち取られる。

戦は織田・徳川方の辛勝に終わる。
浅井家は、遠藤直経のほかにも弓削家澄、今村氏直ら重臣を失い小谷城へ逃げ帰った。

●横山城
その後織田信長は、包囲していた横山城を攻略し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)を城代とし、今後の浅井・朝倉攻めの織田方の拠点とした。

浅井家は3年後の小谷城の戦で滅亡する。

●明智光秀の出世
尚、小谷城浅井長政をおびき出すために、支城の横山城包囲などを織田信長に進言したのは、実際の戦には参陣しなかった明智光秀だったと言われている。
信長は、光秀の有能さに感じ入り、戦後京都警備を任せ、翌年の比叡山焼き討ちのあとは志賀郡を与え坂本城を築城させた。
この時点で、城持ちの家臣は宿老たちの中にもいなかったことから、信長がいかに光秀を信頼したかがわかる。