尼子家随一の武闘派、新宮党棟梁
尼子国久あまご くにひさ
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誕生 1492年(明応元年)
生誕地 出雲国
尼子経久
吉川経基の娘
孫四郎(幼名)、吉田国久、尼子国久
官名 刑部少輔、紀伊守
近親など 正妻:多胡忠重の娘
子:尼子誠久、尼子豊久、尼子敬久など
兄:尼子政久
弟:塩冶興久
甥:尼子晴久
ゆかりの地  出雲国 新宮党館
 出雲国 月山富田城
略歴
●尼子家
1492年 1歳 出雲国月山富田城主、尼子経久の二男として生まれる
●吉田家
その後、出雲国の国人、吉田家の養子に
1518年 27歳 兄で尼子家嫡男、尼子政久が、阿用磨石城主の桜井宗的攻めで戦死
その報復戦で磨石城を攻め落とす
●新宮党
その後、月山富田城の北麓、新宮に館を構え新宮党を名乗り、尼子家最強の軍団に
1524年 33歳 伯耆国平定戦(大永の五月崩れ)で、尾高城、不動ヶ城、羽衣石城などを攻略するなど貢献
1530年 39歳 実弟で塩冶家を継いでいた塩冶興久が尼子家に対し反乱を起こすが、尼子経久が平定
塩冶興久の旧領を加増される
1534年 43歳 塩冶興久が自害
1536年 45歳 父、尼子経久が美作国備後国を攻略
1537年 46歳 父、尼子経久が隠居し、甥の尼子晴久が尼子家を相続
主君尼子晴久、大内家の勢力下にあった石見銀山を奪回
1539年 48歳 主君尼子晴久、赤松晴政の播磨国を攻略
主君尼子晴久安芸国方面では吉田郡山城毛利元就の勢力増大により、苦戦が続く
●大敗
1540年 49歳 主君尼子晴久吉田郡山城攻めでは、備後国から安芸国へ進軍、宍戸家と戦い一旦勝利するが、その後敗北。(吉田郡山城の戦
これにより、安芸国の同朋、武田家が滅亡
尼子家に味方していた地元国人衆の離反が相次ぐ
1541年 50歳 父、尼子経久が死没
主君尼子晴久大内義隆毛利元就月山富田城を攻められるが勝利、追撃戦の先鋒として貢献。(月山富田城の戦(第一次)
1543年 52歳 主君尼子晴久、大内家に奪われていた石見国に侵攻し、再び石見銀山を奪回
1544年 53歳 主君尼子晴久因幡国の山名久通を攻め配下に組み込むが、その後、山名祐豊に攻められた山名久通が敗北したことから、因幡国から撤退
1546年 55歳 伯耆国の橋津川の戦で、二男、尼子豊久が戦死
●主君との対立
その後、子の尼子誠久の粗暴さから、新宮党は家中の恨みを買うように
またこの頃から、主君尼子晴久と意見が合わず対立するように
1548年 57歳 毛利元就安芸国備後国方面を攻略される
●尼子家最盛期
1551年 60歳 大内義隆が、家臣の陶晴賢の反乱により討たれる
主君尼子晴久美作国に出陣し、浦上宗景に勝利
その後、主君尼子晴久は、出雲国伯耆国隠岐国美作国因幡国備前国備中国備後国、計8ヶ国の守護職を拝領し、尼子家の最盛期を迎える
●粛清
1554年 63歳 新宮党の強大化や傲慢さを嫌った主君尼子晴久から、子の尼子誠久とともに粛清される。(新宮党の変)
レクイエム 新宮党粛清は、毛利元就の謀略(離反策)の結果との説もあるが、はっきりしない。

国久は子の誠久とともに月山富田城での評定へ向かう途中、本田家吉らに囲まれ討ち取られた。子の尼子敬久も館を攻められ自害(異説あり)するなど、一族郎党190名以上が戦死、これにより尼子家で権勢を誇った新宮党は壊滅した。

その際、尼子誠久の五男が難を逃れたが、後に山中鹿之介に尼子家再興を目指し擁立された尼子勝久である。
死没 1554年11月25日(天文23年11月1日) (享年64歳)