中国8ヶ国の守護大名にのしあがった
尼子晴久あまご はるひさ
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誕生 1514年3月8日(永正11年2月12日)
生誕地 出雲国
尼子政久
山名幸松の娘
三郎四郎(幼名)、尼子詮久、晴久
官名 従五位下、修理大夫、民部少輔
幕職 出雲、伯耆、壱岐、美作、因幡、備前、備中、備後守護、相伴衆
近親など 祖父:尼子経久
大叔父:尼子久幸など
子:尼子義久、尼子倫久、尼子秀久など
ゆかりの地  出雲国 月山富田城
 石見国 石見銀山
略歴
●尼子家
1514年 1歳 出雲国月山富田城主、尼子経久の嫡男、尼子政久の嫡男として生まれる
●父の死、祖父の隠居、家督相続
1518年 5歳 父、尼子政久が阿用城攻めで戦死
その後元服し、尼子詮久と名乗る
1531年 18歳 経久に反抗した叔父、塩冶興久に味方した舅の山内直通(備後国)攻めに参陣
●勢力拡大
1534年 21歳 塩冶興久が自害
1536年 23歳 美作国備後国を攻略
1537年 24歳 祖父、尼子経久が隠居し、家督を相続
大内家の勢力下にあった石見銀山を奪回
1539年 26歳 赤松晴政の播磨国を攻略
播磨国三木城の別所就治を攻めるが失敗
安芸国方面での拡大を狙うが、吉田郡山城毛利元就の勢力増大により、苦戦が続く
●大敗
1540年 27歳 毛利元就吉田郡山城を強引に攻めるが失敗。(吉田郡山城の戦
これにより、安芸国の同朋、武田家が滅亡
味方していた地元の国人衆の離反が相次ぐ
1541年 28歳 祖父、尼子経久が死没
●危機脱出
1542年 29歳 将軍、足利義晴から一字を賜り、尼子晴久と改名
大内義隆毛利元就月山富田城を攻められるが勝利。(月山富田城の戦(第一次)
1543年 30歳 大内家に奪われていた石見国に侵攻し、再び石見銀山を奪回
1544年 31歳 因幡国の山名久通を攻め配下に組み込む
その後、山名祐豊に攻められた山名久通が敗北したことから、因幡国から撤退
1548年 35歳 美作国東部の三浦家を配下に組み込む
毛利元就安芸国備後国方面を攻略される
1551年 38歳 備前国の浦上家や松田家を配下に組み込む
●8ヶ国の守護
大内義隆が、家臣の陶晴賢の反乱により討たれる
美作国に出陣し、浦上宗景に勝利
その後、出雲国伯耆国隠岐国美作国因幡国備前国備中国備後国、計8ヶ国の守護職を拝領し、尼子家の最盛期を迎える
●粛清
1554年 41歳 離反しつつあった一族の尼子国久、尼子誠久を謀殺。(新宮党の変)
これにより、出雲国の全てが尼子家の直轄領となったが、総合的な戦力は低下
●石見銀山をめぐる対立
1555年 42歳 陶晴賢を討ち、毛利元就の勢力下となった石見国をめぐり抗争が激化
1556年 43歳 陶晴賢がおさえていた石見銀山を、毛利元就の二男吉川元春が確保
1558年 45歳 忍原崩れで毛利元就らに勝利し、石見銀山を勢力下に
1561年 47歳 急死
レクイエム 出雲国を基盤に勢力拡大に終始した、典型的な戦国大名と言える。

新宮党の変の原因は、毛利元就の謀略だったという説もある。
死没 1561年1月9日(永禄3年12月24日) (享年47歳)