有職故事に明るかった、信長を倒した男
明智光秀あけち みつひで
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誕生 1528年(享禄元年)(異説あり)
生誕地 不明(美濃国明智説が有力)
明智光綱
お牧の方
彦太郎(幼名)、十兵衛、明智光秀、咲庵
官名 従五位下、惟任日向守
近親など 正妻:妻木載煕の娘(煕子)
子:明智光慶、玉(細川ガラシャ細川忠興正妻)、津田信澄の正妻など
従妹:濃姫(斎藤道三の娘、織田信長正室)など
娘婿:細川忠興津田信澄明智秀満など
ゆかりの地 GOOGLE MAP 美濃国 明智城(明智長山城)
 近江国 坂本城
 丹波国 亀山城(亀岡城)
 丹波国 福智山城(福知山城)
 丹波国 愛宕神社
 山城国 本能寺(現在の本能寺とは違います)
略歴
●明智城
1528年 1歳 美濃国斎藤道三家臣で土岐家の一族、明智光綱の子として生まれる
1535年 8歳 父綱が死没したため家督を相続
若年だったため、叔父で明智城主の明智光安の後見を受ける
●浪人
1556年 29歳 斎藤道三と争い始めた斎藤義龍に明智城を攻められ、一家は離散、浪人となる
その後仕官先を探して諸国を放浪、その途上、鉄砲術や和歌を学び、足利幕府の要人細川藤孝(幽斎)とも知り合う
●朝倉への随身
その後、越前国朝倉義景に仕える
1565年 38歳 松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が13代将軍義輝を暗殺。(永禄の変
義輝の弟覚慶(足利義昭)の身も危ないことから、細川藤孝(幽斎)覚慶(足利義昭)をかくまい、将軍家復興のため朝倉義景を頼ったことから光秀と再会
1568年 41歳 朝倉義景には上洛の意思がないことから、尾張国織田信長を頼ることを覚慶(足利義昭)に提案、信長に会い上洛の承諾を得る
●信長への随身
光秀も朝倉義景を見限り、織田信長に仕える。有職故事に明るいため信長の頼りとするところとなる
信長に担がれて上洛した足利義昭が15代将軍の座に就く。(信長の上洛戦)
信長が京都を離れる際は、村井貞勝らとともに京都に残り政諸務を行う
本國寺の変では足利義昭を守り切る
1570年 43歳 傀儡将軍に過ぎないことを知った足利義昭が、信長打倒を決意
浅井家攻略のための構想を織田信長に提案。(姉川の戦となる)
戦後はこの功により、京都警備を任せられる
野田・福島の戦
志賀の陣
1571年 44歳 織田信長に従い比叡山焼き討ちを実行
●出世頭
1572年 45歳 近江国志賀郡5万石を与えらる。織田家家臣の中では新参ながら、一番の出世頭に
琵琶湖岸に坂本城を築城し、居城に
1573年 46歳 越前国一乗谷攻めで功をたてる
1575年 丹波方面の攻略を命じられ侵攻するが、波多野秀治の裏切りにより敗退。(黒井城の戦(第一次))
●丹波方面司令官
1577年 50歳 信貴山城の戦に参陣
    再び丹波方面の攻略を開始
1578年 51歳 丹波国亀山城を築城し、二つ目の居城に
1579年 52歳 丹波国、八上城の波多野秀治、秀尚兄弟を攻め落城させる
    丹後国守護で弓削城主の一色義定を攻め降伏させ、丹後国を織田家の支配下に置く
    信長に背いた荒木村重松永久秀らの討伐に貢献
    この頃斎藤利三を家老に迎える
    丹波国一国(29万石)を与えられる
    丹後国細川忠興大和国筒井順慶らを指揮下に置き、織田家の近畿方面司令官となる
    福智山城(福知山城)を築城
    ●謀反
1582年 55歳 織田信長の命により、安土城において徳川家康への接待役を務める
    毛利方と対峙していた中国方面司令官の羽柴(豊臣)秀吉から出馬要請を受けた織田信長が、大軍を派遣することを決定し、光秀も出馬命令を受ける
    居城、亀山城(亀岡城)に戻り、出陣準備
    愛宕神社に里村紹巴らを招き、連歌会「愛宕百韻」を開催
    軍を京都に転進させ、織田信長のいる本能寺を急襲し自害させる。(本能寺の変
    与力である娘婿細川忠興やその父細川幽斎(藤孝)、組下の筒井順慶らから支持を得られず孤立
    中国から大返ししてきた羽柴(豊臣)秀吉と、摂津国山城国の国境山崎で対決し敗戦。(山崎の戦
    敗走途上、伏見小栗栖の竹藪で落人狩にあい死没
死没 1582年7月2日(天正10年6月13日) 享年55歳
レクイエム (信長を裏切った理由については、本能寺の変で考察していますので参照ください)

1582年には死んでおらず、延暦寺に逃げ込み僧となり、天海として生きながらえたという説がある。