用語集 > 年表でみる江戸時代
用語集
かな 用語 意味
上米の制 8代将軍、徳川吉宗が制定。
大名の参勤交代による江戸詰の期間を、従来の1年から半年に短縮させる替りに、石高1万石につき100石の米を治めさせた
幕府の増収が目的だったが、問題点も多く8年で廃止された。
足高の制 8代将軍、徳川吉宗が制定。
従来、幕職に就くには禄高の基準が設けられており、有能な者でも家格によっては要職に就けなかった点を考慮し、基準以下の禄高の者が就任する際は、在職中に限り不足している禄高を上乗せして支払うこととした。
江戸町奉行 三奉行のひとつ(残りは寺社奉行、勘定奉行)。
幕府の最高裁判機関である評定所の構成員でもあり、幕政にも参加する要職。
与力や同心を配下に、江戸における司法、行政、治安維持を行うのが主な職務。
初めは大名から、のちに旗本から選ばれた。
奉行所は2ヶ所あった(通称、南町・北町)。
訴訟については月番制。
単に町奉行とも呼ばれた。
御側御用取次 8代将軍、徳川吉宗が、それまでの側用人(制)に近い職として新設した。
将軍の居所である中奥の談事部屋を詰め所とし、将軍と老中や役人との取次、将軍との政策や人事の相談、目安箱の取り扱いや御庭番の管理などを行った。
側近の中から特に3名ほどが任命された。
海援隊 慶応元年(1865年)に坂本龍馬によって結成された「亀山社中」が前身で、慶応3年(1867年)に「海援隊」に改称された。。
薩摩藩などからの出資を受け、私設海軍、商取引、開拓、運輸、航海術などの教育、出版など広く活動を行った。現代における株式会社に近い。
奇兵隊(長州奇兵隊) 長州藩の高杉晋作が、身分によらず隊士を募集し結成した有志軍のひとつ。.
「正規兵」の「正」と「規」の文字を反対にして名付けられた。
隊士は藩から給与を支給され、蘭学兵学者の大村益次郎の元で調練を受けた。
検見法(けみほう) 年貢の徴収法のひとつで、毎年の収穫高に応じて税率が決められた。
農民にとっては、飢饉の際などの年貢が軽くなるのでメリットはあったが、徴収側としては安定した税収が見込めないことや、代官による検見(検分)の手間が掛かったこと、また、賄賂の温床にもなりやすかったことなどがデメリット。
高家(こうけ) 幕府で儀式や典礼を司る役職で、老中の下に置かれた。
足利一門や旧守護家、戦国大名の子孫などの旗本が主な対象者で、朝廷への使者や勅使の饗応、東照宮や伊勢神宮などへの将軍参内などを行った。
五街道 江戸日本橋を拠点とする、東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、水戸街道の総称。
慶長6年(1601年)に徳川家康が整備を開始した。
国学 国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学などを範囲とした学問。和学、皇朝学、古学などともいう。
佐幕 幕府の政策や存在そのものを肯定する考え方。
伺候席 江戸城内で将軍に拝謁する順番を待っていた控席。
。殿席、詰所とも言い、家格順に大廊下席、大広間席、溜詰、帝鑑間席、柳間席、雁間詰、菊間広縁詰の七つがあった。
攘夷
(じょうい)
鎖国を継続し、実力(武力)で外国人を排撃しようという考え方。
定免法
(じょうめんほう)
年貢の徴収法のひとつで、過去5年、10年、20年などの期間における収穫高の平均から年貢を決定する方法。
毎年の収穫高に応じて税率を決める検見法よりも経費が低く済み、また安定した税収が見込めたが、飢饉であっても決められた納税を行わなければならず、農民の困窮や逃散を引き起こすリスクは高かった。
新選組 八月十八日の政変の際の働きが認められた壬生浪士組が、新たに与えられた組名。
当初は24名だった隊員数も、最盛期には200名を越える組織に発展。
池田屋事件での活躍により幕臣となる。
大政奉還後の戊辰戦争でも幕府に従い戦うが、敗北する。
尊皇
(そんのう)
天皇を敬うべきとう考え方。
大老 幕府の最高職の老中の上に、臨時に置かれた幕職。
通常の定員は1名。
重要な政策決定だけに関与し、老中のような日常業務には関与しなかった。
井伊家、酒井家、土井家、堀田家の四家からのみ選出された(大老四家)
溜詰
(たまりづめ)
伺候席のひとつ。
家格としては3番目だが、将軍の執政や生活の場所である奥から一番近くにあり、臣下にとっての最高の席。
勅書
(ちょくしょ)
勅命を伝える文書
勅許
(ちょっきょ)
天皇の許可。(勅命による許可)
旗本 将軍家直属の家臣のうち、知行高1万未満下で、将軍が出席する儀式などへの参列が許された(御目見以上の)者。
部屋住み 親から独立しておらず、城や屋敷に留まっている状態の者。
壬生浪士組
(みぶろうしぐみ) 
浪士組の後身、新選組の前身。
公武合体に基づいての攘夷断行を目的とする、会津藩預かりの非公式武装組織。
当初の人員は36名ほど。
精忠浪士組とも呼ばれた。
京都壬生村の八木邸や前川邸に屯所を置き、討幕派や不貞浪士の探索や捕縛などを行った。
組織内部では、水戸藩出身の芹沢鴨(筆頭局長)の派閥と、試衛館出身の近藤勇(局長)、土方歳三、沖田総司らの派閥などに分かれて対立、粛清を行うなど抗争を繰り返した。
目安箱 町人や農民からの訴えを直接きくために、8代将軍、徳川吉宗が設置した。
戦国時代には、相模北条家や甲斐武田家も取り入れていた。
浪士組 1862年(文久2年)、将軍、徳川家茂の上洛の際、尊攘派、討幕派から警護することを目的に、236名で構成された武装組織。
攘夷断行、大赦(過去の罪の免除)、天下の英才の教育(文武優秀な人材登用)、(以上、急務三策)を条件に募集された。
庄内藩士、清河八郎の献策によるもので、松平上総介、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが取締役となった。
入京後、 清河八郎が浪士組の真の目的は尊王攘夷の先鋒になることであり、江戸へ戻り幕府に対し攘夷活動を行うと言い出すものの、一部の者は京都に残って将軍警護に当たるべきと主張、それが「壬生浪士組」となる。
老中 幕府の最高職。
江戸城本丸御殿の御用部屋に詰所を置いた。
将軍に直属し、大目付、町奉行、遠国奉行、駿府城代などの指揮、監督や、朝廷、公家、大名、寺社などに関する事柄など、様々な政務を統括した。
通常5万石以上の譜代大名から、4~5名が選出され、毎月1名が交代の上勤務した(月番)。
のちに財政を専門に扱う老中首座(筆頭老中)なども置かれるようになった。
古くは年寄衆、また宿老とも呼ばれた。
老中になると、天皇に謁見が可能な従四位下に昇進し、西之丸下に屋敷を移された。