将軍綱吉が重用した元館林藩士
柳沢吉保やなぎさわ よしやす
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誕生 1659年1月10日(万治元年12月18日)
生誕地 武蔵国 江戸 市ヶ谷
先祖など 河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門
柳沢安忠
了本院(佐瀬氏)
十三郎、弥太郎、房安、佳忠、信本、保明、吉保、松平吉保、保山、楽只堂、主悦(通称)
官名 従六位下、従五位下、出羽守、従四位下、侍従、左近衛少将、美濃守、贈従三位
藩職 上野国館林藩小姓組番衆、上総国佐貫藩主、武蔵国川越藩主、甲斐国甲府藩主
幕職 小納戸役、側用人、老中格、大老
近親など 正室:定子(曽雌定盛の娘)
側室:染子(飯塚正次の娘)、町子(正親町実豊の娘)
子:柳沢吉里、柳沢長暢、柳沢安基、柳沢経隆、柳沢時睦、米倉忠仰、柳沢保経、娘(内藤政森の正室)、娘(松平資訓の継室)
ゆかりの地 GOOGLE MAP 上野国 館林城
GOOGLE MAP 武蔵国 江戸城
GOOGLE MAP 上総国 佐貫城
GOOGLE MAP 武蔵国 河越城
GOOGLE MAP 甲斐国 甲府城
略歴
●館林藩士
1658年 1歳 上野国館林藩士で勘定方の、柳沢安忠の長男として生まれる
1664年 7歳 館林藩主、徳川綱吉に拝謁
1673年 16歳 元服
●家督
1675年 18歳 父の隠居を受け、家督を相続(530石)
小姓組番衆に
1676年 19歳 曽雌定盛の娘、定子と結婚
●幕臣
1680年 23歳 藩主、徳川綱吉が、将軍、徳川家綱の後継となると、綱吉に従い江戸城に入り幕臣に
小納戸役に
    徳川綱吉、第五代征夷大将軍に
1681年 24歳 300石を加増され830石に
徳川綱吉の学問上の弟子に
市ヶ谷から愛宕下に転居
生母、了本院(佐瀬氏)を引き取る
1682年 25歳 従六位下に
1683年 26歳 200石を加増され1030石に
義兄の柳沢信花が、高橋源大夫と江戸城西の丸前で喧嘩沙汰を起こし死没
1684年 27歳 西の丸邸に転居
    ●出羽守
1685年 28歳 従五位下・出羽守に
    この頃から生類憐みの令(135回に渡る)が発令され始める
1686年 29歳 1000石を加増され2030石に
この頃、了本院の侍女、染子を側室に
1687年 30歳 染子との間に、嫡男が誕生(柳沢吉里)
父、柳沢安忠が死没
1688年 31歳 一橋内の屋敷に転居
    ●側用人・大名
側用人となり、1万2千石の大名に
廃城となっていた上総国佐貫城主に
1689年 32歳 神田橋内に転居し、霊岸島に中屋敷を拝領
1690年 33歳 2万石を加増され3万2千石に
従四位下に
1691年 34歳 常盤橋内に屋敷を拝領
将軍、徳川綱吉が柳沢邸に御成り
1692年 35歳 3万石を加増され6万2千石に
1694年 37歳 武蔵国河越城主に(7万2千石)
常盤橋内の隣地に屋敷を拝領
1694年 38歳 駒込染井村の旧前田綱紀邸を拝領(後の六義園)
1696年 40歳 荻生徂徠を、学問の講師や政治諮問役として重用
1697年 41歳 将軍家菩提寺の、寛永寺根本中堂造営の惣奉行に
左近衛権少将に。これにより席次が老中の上に
1700年 44歳 高家武田家の創設に尽力
1701年 45歳 松の廊下事件
    松平姓と偏諱を与えられ、吉保と名乗る
1702年 46歳 邸が火災により焼失
●甲府城主
1704年 48歳 将軍の後継に、甲斐徳川家の徳川綱豊が決定
これを受け甲斐国甲府城城主に(15万1200石)
1705年 49歳 国替に際した家中禁令を改定
恵林寺で、武田信玄の百三十三回忌の法要を営む
側室、染子が死没
    ●大老格
大老格に
1707年 51歳 宝永大噴火(富士山)
    ●綱吉死没
1709年 53歳 将軍、徳川綱吉が死没
徳川綱豊が第六代征夷大将軍に(徳川家宣)
その後、将軍徳川家宣の家臣だった、新井白石が重用されるように
    ●隠居
隠居し保山と号し、子の柳沢吉里に家督を譲る
子の柳沢経隆、柳沢時睦に1万石を分知(甲斐新田藩)
1712年 56歳 正室、定子が死没
1714年 58歳 死没
死没 1751年7月12日(寛延4年6月20日) (享年68歳)
レクイエム 柳沢家は甲斐武田家に仕えた武川衆で、祖父、柳沢信俊は武田家滅亡後徳川家康に仕えた。

公用日記「楽只堂年録」を残した。

また、「泰平の世の中で、出世をするのは、金と女を使うに限る」という言葉も残している。