享保の改革を行った紀州藩出身の8代将軍
徳川吉宗とくがわ よしむね
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誕生 1684年11月27日(貞享元年10月21日)
生誕地 和歌山城
先祖など 徳川家康(曾祖父)、徳川頼宣(祖父・初代紀州藩主)
徳川光貞(2代紀州藩主)
於由利の方(常円院・側室)
源六(幼名)、新之助、松平頼久、頼方、徳川吉宗、米将軍、八十八将軍
官名 従四位下、右近衛権少将兼主税頭、従三位、左近衛権中将、参議、権中納言、征夷大将軍、正二位、内大臣兼右近衛大将、右大臣、贈正一位、太政大臣
藩職 越前国葛野藩主、紀伊国紀州藩主
幕職 第八代征夷大将軍
近親など 兄:徳川綱教、徳川次郎吉、徳川頼職
妹:栄姫(上杉綱憲の正室)、光姫(一条冬経の正室)、育姫(佐竹義苗の正室)、綱姫
正室:真宮理子女王
側室:深徳院(大久保忠直の娘)、深心院(谷口正次の娘)、本徳院(竹本正長の娘)、覚樹院(稲葉定清の娘)、など
ゆかりの地 GOOGLE MAP 紀伊国 和歌山城
GOOGLE MAP 武蔵国 江戸城
略歴
●紀州
1684年 1歳 徳川御三家のひとつで紀州藩主、徳川光貞の四男として生まれる
その後、家老に養育される
    ●江戸
その後、江戸の藩邸に移る
1697年 14歳 将軍、徳川綱吉に御目見え
越前国葛野藩主に(3万石)(領地へは赴かず)
徳川頼久から頼方に改名
●紀州藩主
1705年 22歳 長兄で紀州藩主となっていた、徳川綱教が死没、三兄の徳川頼職が藩主に
父の徳川光貞が死没
兄の徳川頼職が死没、これにより家督を相続し紀州藩主に
将軍、徳川綱吉から偏諱を受け、徳川吉宗と名乗る
1706年 23歳 伏見宮貞致親王の娘、真宮理子女王と結婚
1710年 27歳 正妻の真宮理子女王が死没
紀州に移り藩政改革に着手(機構の簡易化、質素倹約、訴訟箱の設置、文武奨励、孝行への褒章制度など)
●将軍
1716年 33歳 7代将軍、徳川家継が8才で早世、将軍家の血筋が絶える
御三家筆頭の尾張家を抑え、8代将軍となり江戸城
その際、恒例では紀州藩は廃藩となるところだったが、これをくつがえし存続させ、従兄の徳川宗直に家督を譲る
●享保の改革
これまで幕政を担っていた側用人の間部詮房や新井白石を罷免
側用人に近い職として御側御用取次を新設、紀州藩出身の小笠原胤次、有馬氏倫、加納久通を任命
1717年 34歳 水野忠之を老中に任命、財政改革を開始(享保の改革)
    町火消を制度化
大岡忠助を江戸町奉行に任命
1721年 38歳 目安箱を設置
1722年 39歳 年貢の徴収方法を、それまでの検見法から定免法に変更
上米の制を制定
    小石川養生所を開設
1723年 40歳 足高の制を制定
1732年 49歳  享保の大飢饉
1742年 59歳 公事方御定書を制定
    ●大御所と両卿創設
1745年 62歳 長男の徳川家重に将軍職を譲るが、家重が病弱で言語障害を持っていたことなどから、以降も大御所として実権を掌握
1746年 63歳  田安家を創設し、次男の徳川宗武を当主に(両卿・のちに御三卿) 
    一橋家を創設し、四男の徳川宗尹を当主に(両卿・のちに御三卿) 
    中風を患い、右半身麻痺と言語障害を得る
1751年 68歳  死没 
死没 1751年7月12日(寛延4年6月20日) (享年68歳)
レクイエム テレビドラマ、「暴れん坊将軍」のモデル。

定免法や上米の制などの改革を行ったことから、米将軍(判じて、八十八将軍)と呼ばれた。