藩を討幕に傾かせた奇兵隊の創設者
高杉晋作たかすぎ しんさく
画像
誕生 1839年9月27日(天保10年8月20日)
生誕地 長門国
先祖など   
高杉小忠太
みち
晋作、東一、和助、暢夫、楠樹(号)、東行(号、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生、些々、谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助、春風
官名 贈正四位
藩職 藩士
新政府  
近親など 妹:武、栄(はえ)、光(みつ)
妻:まさ(井上平右衛門の娘)
側室:おうの(梅処尼)
子:谷梅之進(高杉東一)
ゆかりの地 GOOGLE MAP 長門国 生誕の地
GOOGLE MAP 長門国 松下村塾
GOOGLE MAP 長門国 墓所(東行庵)
略歴
●長州
1839年 1歳 長門国長州藩士、高杉小忠太の嫡男として生まれる
1848年頃 10歳 疱瘡を患う
1852年 14歳 藩校、明倫館にで学ぶ
その後、剣術、柳生新陰流の免許皆伝に
1853年 15歳  黒船来航 
    ●松下村塾
1857年 19歳 吉田松陰の松下村塾に入門
その後、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれるように
    ●江戸
1858年 20歳 藩命を受け、江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋塾で学ぶ
1859年 21歳 師である吉田松陰が、安政の大獄を受け小伝馬町の牢に投獄されると、これを見舞って世話を行う
藩命により帰省の途中、吉田松陰の斬首を知り、幕府に対し激怒
1860年 22歳 山口町奉行、井上平右衛門の娘、まさと結婚
1861年 23歳 海軍の修練の為、藩の軍艦「丙辰丸」に乗船し、再び江戸へ
神道無念流練兵館道場にて剣術の稽古を行う
東北地方へ遊学、その際、加藤桜老(笠間出身・儒学者)、佐久間象山(上田出身・兵学者)、横井小楠(熊本出身・儒学者)と交友
    佐久間象山から、外国の実情を見ることの重要性を説かれる
    ●渡海
1862年 24歳 藩命を受け、幕府使節随行員として上海へ渡海、清の欧米植民地化を目の当たりにするなど、大きな影響を受ける
藩内ではこの頃から尊王攘夷派が台頭
帰国後、桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞らと尊攘運動を展開、諸藩の同志と交流を持つように
生麦事件薩摩藩士によるイギリス人殺傷)に感化され、12名の志士による御楯組(みたてぐみ)を組織、正義派(保守派に対して)の旗頭となり金沢八景にて外国公司襲撃を計画
計画を知った次期藩主の毛利定広より、江戸藩邸にて謹慎処分に
1863年 25歳 江戸御殿山に建築中の、イギリス公使館を焼き討ち(英国公使館焼き討ち)
こういった正義派らの過激な行動が、幕府を刺激することを恐れた藩から、召還を命じられる
●隠遁
東行と名乗り、松本村に草庵を結んで10年の隠遁を宣言
    ●下関戦争
幕命を受けた長州藩が、下関で欧米艦船への砲撃を開始(下関戦争)(下関事件)
藩命により下関防衛の総監に
奇兵隊を結成、身分によらず隊士を募集
奇兵隊と藩の正規部隊である撰鋒隊が衝突、殺傷沙汰に発展(教法寺事件)
教法寺事件の責任により、総監を罷免される
八月十八日の政変により、長州藩が京都から追放される
    ●脱藩
1864年 26歳 脱藩し京都へ潜伏
    桂小五郎(木戸孝允)の説得を受け帰郷
    脱藩の罪で野山獄に投獄される
    その後出所するが謹慎処分に
    新選組が、京都の池田屋に終結していた長州藩や土佐藩の尊攘派を襲撃(池田屋事件)
    長州軍が京都に入り幕府軍と激突(禁門の変)
イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦から砲撃され、下関の砲台を占拠される(四国艦隊下関砲撃事件イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)
これを受け、藩命により和議交渉役に
講和会議で提示された諸条件を受け入れるが、彦島の租借だけは植民地化を恐れたことから譲らず
●第一次長州征伐
幕府による第一次長州征伐が迫ると、保守派が台頭し、藩論は幕府への恭順へ傾く
伊藤俊輔(博文)の力士隊、石川小五郎の遊撃隊、三条実美(七卿落ちで失脚していた元公卿)らとともに功山寺で挙兵(功山寺挙兵)
1865年 27歳 太田・絵堂の戦を経て正義派が優勢に
    高杉家を廃嫡される
保守派の椋梨藤太らが失脚、これにより藩政を掌握
長崎でイギリス商人のグラバーと会い、イギリス渡航を目指すが反対され断念
海外貿易を始めるため下関開港を推進
攘夷派、保守派からつけ狙われるようになり、愛妾おうのとともに讃岐国多度津の日柳燕石の元へ逃亡
桂小五郎(木戸孝允)の斡旋を受け帰郷
藩命により谷潜蔵と改名、100石を知行
●薩長同盟
1866年 28歳 土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎、土方久元の仲介により、薩摩藩との盟約が成立(薩長同盟)
伊藤俊輔(博文)とともに長崎へ行き、グラバーから蒸気船、丙寅丸(オテントサマ丸)を購入
    ●第二次長州征伐
第二次長州征伐(四境戦争)では、海軍総督となって丙寅丸に乗船、戦闘の指揮を執る
周防大島沖で幕府艦隊を夜襲
林半七の第二奇兵隊等とともに、幕府軍に占領されていた周防大島を奪還
長州軍は豊前国小倉城近くまで進攻するが、熊本藩の細川軍に阻まれ、戦線が停滞
将軍、徳川家茂が死没
これを受けて幕府軍のうち、熊本藩、久留米藩、柳川藩、唐津藩、中津藩が撤兵
幕府軍総督の小笠原長行が小倉から離脱
小倉藩は小倉城に火を放って逃亡、これにより長州藩の勝利が確定
1867年 29歳 大政奉還
肺結核を得、下関市桜山で療養するが死没
死没 1867年5月17日(慶応3年4月14日) (享年29歳)
レクイエム 墓所は下関の東行庵や東京の靖国神社