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●土佐 |
1836年 |
1歳 |
土佐藩の下士(郷士)、坂本八平の二男として生まれる |
1846年 |
12歳 |
母が死没 |
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その後、父の後妻となった伊与や姉の乙女に育てられる |
1848年 |
14歳 |
剣客、日根野弁治に入門、和兵法である小栗流を学ぶ |
1853年 |
19歳 |
小栗流の目録を得る |
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●江戸 |
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土佐藩に、剣術修行のための江戸遊学を許される |
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江戸では土佐藩中屋敷(上屋敷とも)に寄宿 |
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北辰一刀流創始者、千葉周作の弟、千葉定吉の桶町千葉道場(小千葉道場)に入門 |
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若山勿堂の山鹿流兵法を学ぶ |
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アメリカのペリーが黒船4隻を率いて、相模国浦賀に来航すると、藩の招集を受け品川の下屋敷を守備 |
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兵学者、佐久間象山の私塾に入学 |
1854年 |
20歳 |
佐久間象山が、吉田松陰の米国軍艦密航事件に関与した罪で投獄される |
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●帰国 |
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土佐国へ帰国 |
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小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条を取得、日根野道場の師範代に |
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ジョン万次郎に関する「漂巽記略」の編者で絵師の河田小龍より、国際情勢について学ぶ |
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徳弘孝蔵から砲術とオランダ語を学ぶ |
1855年 |
21歳 |
父が死没 |
1856年 |
22歳 |
兄の坂本権平が坂本家の家督を相続 |
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●江戸 |
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土佐藩に剣術修行のための二度目の江戸遊学を許される |
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大石弥太郎や武市半平太らとともに、土佐藩邸中屋敷に寄宿 |
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桶町千葉道場(小千葉道場)や千葉周作の玄武館(大千葉道場)で修業 |
1857年 |
23歳 |
師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授かる |
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●帰国 |
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土佐国へ帰郷 |
1859年 |
25歳 |
将軍継嗣問題では一橋派だった土佐藩主、山内容堂が、安政の大獄の煽りを受け隠居、養子の山内豊範に家督を譲る |
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その後も藩政は山内容堂が掌握 |
1860年 |
26歳 |
桜田門外の変 |
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これを受け、土佐藩の下士たちが尊皇攘夷へ傾倒 |
1861年 |
27歳 |
井口村刃傷事件(永福寺事件)により、上士と下士が対立 |
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武市半平太が、諸国遊学を経て土佐藩の勤王運動が諸藩と比べ遅れていることを知り、江戸において土佐勤王党を結成 |
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武市半平太が、長州藩の久坂玄瑞や薩摩藩の樺山三円と語らい、それぞれの藩論を尊皇攘夷と倒幕に向かわせる盟約を結ぶ |
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●土佐勤王党 |
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土佐国に戻った武市半平太の土佐勤王党に加盟 |
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土佐勤王党が藩に対して尊皇攘夷と倒幕を訴えるが、公武合体を反論としていた参政の吉田東洋らの支持を得られず |
1862年 |
28歳 |
諸藩の動静調査のため出国、長州の久坂玄瑞と面会、武市半平太宛の書簡「草莽崛起、糾合義挙(日本を改革するのは武士ではなく志のある在野の人たであり、同士を集めて正義のために起ちあがろう)」を託される |
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土佐国に帰国 |
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薩摩藩の島津久光が、兵を率いて上洛するとの情報を得て、吉村虎太郎や沢村惣之丞等が脱藩しそれに参加しようと志すと、龍馬も脱藩を決意 |
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藩論をまとめることを優先とする武市半平太から、賛同を得られぬまま脱藩 |
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あくまでも公武合体による尊皇攘夷を狙っていた島津久光は、このような過激な志士の動きを知り、鎮撫を命じる |
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吉田東洋が暗殺され、土佐勤王党の仕業とされ、龍馬も容疑者に疑われる |
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寺田屋事件により、薩摩藩以外の尊皇攘夷派の計画も無に帰し、吉村虎太郎は捉えられて土佐国へ送還される |
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●江戸 |
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江戸へ出て、桶町千葉道場に寄宿 |
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この頃、長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作と交流 |
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間崎哲馬や近藤長次郎とともに、幕府政事総裁で前福井藩主の松平春嶽に拝謁 |
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●勝海舟 |
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松平春嶽から紹介を受け勝海舟を訪問、海外情勢や海軍の必要性についての考え方に感銘を受け、その場で門下生に |
1863年 |
29歳 |
勝海舟の山内容堂へのとりなしにより、脱藩の罪が許される |
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龍馬の影響を受け、千屋寅之助、新宮馬之助、望月亀弥太ら多くの土佐藩士が、勝海舟の門下生に |
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その後、勝海舟の海軍操練所設立に奔走 |
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勝海舟、将軍、徳川家茂から神戸海軍操練所と私塾、神戸海軍塾の開設を認められ、幕府から年間3千両を支給されることに |
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資金が足りず、福井藩の松平春嶽を訪問、千両を借り受ける |
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●勤王党暗雲 |
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山内容堂が実権を取り戻すために、吉田東洋暗殺にかかわったとされる土佐勤王党への弾圧を開始、勤王党の間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太を切腹させる |
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八月十八日の政変により、長州藩が京都から追放される |
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大和国で挙兵していた天誅組が、佐幕派に平定される(天誅組の変) |
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武市半平太が投獄される |
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神戸海軍塾塾頭に |
1864年 |
30歳 |
土佐藩に申請していた帰国延期申請を拒否されたため、再び脱藩 |
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勝海舟に随行し、長州藩による関門海峡封鎖の調停にために長崎へ |
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熊本藩士、横井小楠を訪問し会合、勝海舟への返書「海軍問答」を託される |
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●おりょう |
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京都で楢崎龍とと出会う |
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勝海舟が軍艦奉行に昇進、神戸海軍操練所を設立 |
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池田屋事件 |
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勝海舟と下田で会見、京都や大坂の過激な攘夷派を蝦夷地開拓や通商にあたらせる計画を相談 |
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禁門の変 |
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楢崎龍と結婚(内祝言) |
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下関戦争 |
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勝海舟から紹介された薩摩藩の西郷隆盛と面会 |
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勝海舟が老中、阿部正弘の不興を買い失脚 |
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勝海舟、門下生の後事を薩摩藩の家老、小松帯刀に託し江戸へ戻る |
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第一次長州征伐 |
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長州藩の高杉晋作が、功山寺で挙兵(功山寺挙兵) |
1865年 |
31歳 |
神戸海軍操練所が廃止される |
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高杉晋作、長州藩の藩政を掌握 |
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●亀山社中 |
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航海術の専門知識を重視していた薩摩藩などからの出資を受け、貿易や施設海軍機能を持った「亀山社中」を設立 |
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中岡慎太郎、土方久元らとともに、長州藩の桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛会談を斡旋するが失敗 |
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長崎のグラバー商会から、薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋することに成功、対立してきた薩長和解のきっかけに |
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薩摩藩名義で、イギリス製蒸気軍艦ユニオン号(桜島丸、乙丑丸)の購入に成功 |
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「長州再征の勅命には薩摩は従わない」との、薩摩藩の大久保一蔵(利通)の書簡を長州藩に届ける |
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●薩長同盟 |
1866年 |
32歳 |
京都の小松帯刀邸での桂小五郎と西郷隆盛の盟約締結に立ち合う(薩長同盟) |
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●寺田屋事件 |
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長州藩士、三吉慎蔵と京都伏見の船宿、寺田屋で祝杯をあげた翌朝、伏見奉行勢が龍馬捕縛のため乱入、手指を切られるものの拳銃で2名を殺害したのち、薩摩藩に救出される(寺田屋事件) |
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西郷隆盛の勧めを受け、温泉療養のためおりょうを伴い九州へ渡り、霧島や鹿児島を巡る(日本初の新婚旅行といわれる) |
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第二次長州征伐では長州方として参戦、ユニオン号の指揮を執る |
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将軍、徳川家茂が大坂城にて病死 |
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勝海舟と長州軍が話し合い、政府軍は撤兵 |
1867年 |
33歳 |
軍備強化に方針転換していた土佐藩から注目されたことから、参政の後藤象二郎と会談 |
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土佐藩から脱藩について許される |
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亀山社中を海援隊と改称 |
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中岡慎太郎が陸援隊を結成 |
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いろは丸沈没事件 |
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●船中八策 |
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いろは丸沈没事件の談判が終了すると、後藤象二郎とともに藩船「夕顔丸」で兵庫へ向かい、大政奉還の上、議会政治制に移行する施策「船中八策」を後藤象二郎に提示(異説あり) |
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土佐藩と薩摩藩が、討幕の密約を結ぶ(薩土討幕密約) |
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薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らが代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目指す薩土盟約が成立 |
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広島藩(芸州藩)も加わり、薩土芸盟約に発展 |
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長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられると長崎へ戻り、対応 |
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土佐藩と薩摩藩の思惑違いにより、薩土盟約が瓦解、薩摩藩は討幕を準備 |
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土佐へ戻るが、すぐに京都へ向かう |
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●大政奉還 |
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後藤象二郎が二条城へ登城、老中、板倉勝静に対し山内容堂らの連盟による大政奉還の建白書を提出 |
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将軍、徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏、翌日勅許が下される |
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戸田雅楽(尾崎三良)と、新政府職制案である「新官制擬定書」を策定 |
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船中八策を元にした、新政府綱領八策を起草 |
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後藤象二郎の依頼により、松平春嶽の上洛を促す山内容堂の書状を福井藩の三岡八郎(由利公正)に届ける |
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京都へ戻る |
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●近江屋事件 |
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旅籠の近江屋に中岡慎太郎らと投宿していたところ、十津川郷士を名乗る数人に急襲され暗殺される |