西南戦争で散った江戸無血開城の立役者
西郷隆盛さいごう たかもり
画像
誕生 1828年1月23日(文政10年12月7日)
生誕地 薩摩国鹿児島
先祖など   
西郷隆盛(吉兵衛)
満佐子(マサ)(椎原権衛門の娘) 
小吉(幼名)、吉之助、隆永、武雄、隆盛、善兵衛、吉兵衛、吉之助、南洲、三助、菊池源吾、大島三右衛門、大島吉之助、大西郷(通称)、南洲翁(通称)、西郷どん(せごどん)(通称)、うーとん(通称)
官名 正三位
藩職 郡方書役助、御庭役方、徒目付、鳥預、軍賦役、御小納戸頭取、一代小番、御側役、代々小番、大番頭、一身家老組、大目付、陸軍掛、家老座出席、参政、一代寄合
新政府 鹿児島藩大参事、制度取調会議長、陸軍元帥、陸軍大将、参議、近衛都督
近親など 弟妹:琴、西郷吉二郎、鷹、安、西郷従道、西郷小兵衛
正妻:須賀(伊集院兼善の娘)
島妻:とま(愛加那)
後妻:糸子(岩山直温の娘)
子:西郷菊次郎、菊草(菊子)
ゆかりの地 GOOGLE MAP 薩摩国 鹿児島城下の生誕地
GOOGLE MAP 薩摩国 鹿児島城
GOOGLE MAP 薩摩国 徳之島の謫居跡
GOOGLE MAP 薩摩国 沖永良部島の上陸地
GOOGLE MAP 武蔵国 江戸城
GOOGLE MAP 薩摩国 西郷隆盛洞窟
略歴
●薩摩
1828年 1歳 薩摩国薩摩藩下級武士、西郷隆盛(吉兵衛)の長男として生まれる
1837年頃 10歳 腕に怪我を得、武芸での出世を断念
1845年 18歳 郡方書役助に 
1851年 23歳 お由羅騒動(薩摩藩の後継者争い)の末、藩主、島津斉興が隠居し、島津斉彬が藩主に
1852年 24歳 伊集院兼善の娘、須賀と結婚
祖父、西郷湯山(隆充)が死没
父、西郷吉兵衛(隆盛)が死没
母、西郷満佐子が死没
1853年 25歳  アメリカのペリーが黒船4隻を率いて、相模国浦賀に来航
●江戸
1854年 26歳 島津斉彬の江戸参勤に際し、随行の上書を提出し認められ、中御小姓・定御供・江戸詰となり江戸へ
御庭役方として、島津斉彬の側に仕えるように
その後、水戸藩士で学者の藤田東湖と交流
西郷家の貧窮を見かねた伊集院家が、妻の須賀を引き取ったことから離婚
1855年 27歳 薩摩藩より家督相続を許される 
越前藩の思想家、橋本佐内と交流
1856年 28歳 水戸藩の執政で天狗党の首領、武田耕雲斎と交流
島津斉彬の密書を、前水戸藩主の徳川斉昭に届ける
13代将軍、徳川家定に、島津斉彬の養女、篤姫が嫁ぐ
1857年 29歳 参勤交代の帰路、肥後国熊本藩の家老、長岡監物や、津田山三郎らと国事について語らう
    ●帰国
薩摩国に帰国
次弟の西郷吉二郎が御勘定所書役に、三弟の西郷信吾が表茶坊主に任じられる
徒目付、鳥預を兼務
この頃、同じ郷中の大久保利通(正助)も徒目付に
下関の豪商、白石正一郎に藍玉の購入を斡旋
●外交
江戸入り
将軍継嗣問題に関する島津斉彬の密書を、越前藩主、松平春嶽に届ける
橋本佐内と、将軍継嗣問題について協議
1858年 30歳 橋本佐内や儒学者、梅田雲浜らと書簡を交わす
福井藩士で松平春獄の養育係を務めた、中根雪江が来訪し語らう
篤姫からの近衛忠煕への書簡を持って上洛、僧の月照らの協力の元、徳川慶喜継嗣の内勅を得ようとするが叶わず
政敵で彦根藩主の井伊直弼大老
下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震が、勅許を待たず日米修好通商条約に調印
徳川家定が死没
将軍継嗣問題で南紀派が敗北、徳川慶福(家茂)が十四代将軍に
孝明天皇が戊午の密勅を下賜
    ●安政の大獄
井伊直弼、一橋派への弾圧を開始(安政の大獄)
松平春嶽の島津斉彬への書簡を持って鹿児島へ帰国
江戸へ戻り、漢詩人、梁川星巌や儒学者、春日潜庵らと語らう
    ●斉彬の急死
島津斉彬が鹿児島で急死
斉彬の弟、島津久光の子で、斉彬の養嗣子となっていた島津忠義が藩主に
京都で斉彬の死を知り殉死を決意するが、月照に諫められ思いとどまる
公家の近衛家から託された孝明天皇の内勅を、水戸藩と尾張藩に渡すため江戸に行くが果たせず
京都へ戻る
薩摩藩士の有馬新七、有村俊斎、伊地知正治らと、井伊直弼排斥と幕政改革に向けて語らう
    ●尊攘派の危機
    梅田雲浜が幕府により捕縛される
    近衛家からの要請を受け保護した月照とともに伏見へ赴き、有村俊斎らに月照を託し鹿児島へ向かわせる
鹿児島へ戻り、幕府の捕吏から逃れるため西郷三助と改名
福岡藩士の平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来訪するが、薩摩藩は月照を日向国東目へ追放
    ●竜ヶ水沖の入水と奄美大島
平野国臣、月照とともに日向国行きの船に同乗するが、前途を悲観し竜ヶ水沖で入水を決行、月照は死没するが隆盛は平野国臣に助けられる
幕府の捕吏は、隆盛も死んだものと判断し引き上げる
1859年 31歳 藩から役職を解かれ、奄美大島にて蟄居
島民の娘、とま(愛加那)と結婚(島妻)
1860年 32歳 桜田門外の変
    とま(愛加那)との間に、長男(西郷菊次郎)が誕生
1861年 33歳 公武斡旋を行うことを決意した西郷久光から頼られ、召還される
    ●帰還
1862年 34歳 鹿児島に戻り、幕府の目を欺くために大島三右衛と改名
上京しようとしている島津久光に対し、無官であることや地ゴロ(田舎者)であることを理由に反対、不興を買う
島津久光の上京には不本意ながら随行することに決定、下関で待機するよう命じられる
下関で白石正一郎から京都や大阪の政情をきく
薩摩藩士の村田新八と、豪商、森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航
伏見に到着すると、激派志士たちの京都焼き討ちや挙兵の企て阻止を試みる
島津久光から、待機命令無視と志士煽動の疑いにより捕縛され、鹿児島へ護送される
島津久光、朝廷から浪士鎮撫の朝旨を受ける
有馬新七ら8名が、島津久光の命により上意討ちされる(寺田屋騒動)
護送の途中、大島吉之助に改名させられる
徳之島への遠島が決定
村田新八、喜界島への遠島が決定
森山新蔵、船中で自害
徳之島へ到着
とま(愛加那)が、長女、菊草(菊子)を出産
とま(愛加那)が、二人の子と連れて徳之島へ来訪
沖永良部島への遠島が決定
鹿児島の実家の弟たちが、遠慮や謹慎処分となり所領は没収される
    ●沖永良部島
舟牢に入れられたまま沖永良部島へ向かう
沖永良部島に到着し、牢内に留め置かれるが病を得る
座敷牢に移されたことで、病から抜け出す
島民に勉学を教え始める
    ●復帰
1863年 35歳 大久保利通や家老、小松帯刀らの勧めを受けた島津久光から赦免され、鹿児島へ召還
1864年 36歳 鹿児島へ帰還
村田新八を伴い上洛、軍賦役(軍司令官)に
薩摩藩攘夷を主張しながら、外国との交易で利益を上げていることなどから、佐幕派、尊皇派両方から避難されていることを知る
大坂にいる薩摩商人を取り締まる
大商人の上坂を禁止させる
御小納戸頭取、一代小番に
長州に追われていた尊王攘夷派七卿(七卿落ち)の赦免を懇願するための長州兵の入京許可が、朝議によって決定
薩摩藩にも、徳川慶喜から出兵命令が出されるが、小松帯刀と諮り、薩摩は中立の上、皇居の守護を行うことにし、命令を拒否
長州軍が京都に入り幕府軍と激突すると、薩摩軍は長州軍と敵対し撃退(禁門の変)
戦いの際、銃弾を受け負傷
その後、長州藩から「薩奸会賊」(佐幕派の会津藩と同じ不届きもの、といった意か)と呼ばれるように
    ●第一次長州征伐
第一次長州征伐では、徳川慶喜の出兵命令に応じる
四国連合艦隊下関砲撃事件
大坂で蟄居中の勝海舟と語らった結果その意見を容れ、長州に対しては強硬策ではなく緩和策で臨むことを決定
御側役、代々小番に
西郷吉之助に改名
征長軍参謀に
大坂で征長総督の徳川慶勝にお目見えし、長州を降伏させるための案を提示すると、全権を委任される
岩国にて長州藩の吉川経幹と交渉するなどしたことから、事態が収集
1865年 37歳 鹿児島に帰国
岩山直温の二女、イト(糸子)と結婚
尊皇攘夷派の五卿移転問題について奔走し、決着させる
幕府が権威回復のために長州藩主父子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活を図って、武力により勅許を得ようと計画するが、朝廷と語らいこれを阻止することに成功
    ●坂本龍馬との出逢い
土佐勤王党の坂本龍馬を伴い、鹿児島へ帰還
薩摩藩は幕府の征長出兵命令を拒否するべきと説き、認められる
大番頭、一身家老組に
将軍、徳川家茂が、勅書を無視して16万の大軍で入京、参内して武力を背景に長州再征を奏上するが認められず
    ●薩長同盟へ
土佐藩の中岡慎太郎が鹿児島に来訪、長州藩と薩摩藩の和親を説かれ、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことが決定
京都の緊迫した情勢を知ると、下関行きは取りやめて上京
坂本龍馬と面談、長州のために武器や艦船の購入を薩摩藩名義で行うこと承諾
鹿児島に戻り小松帯刀と相談、幕府軍に対するため兵を率いて上京
長州藩からの兵糧米購入を、坂本龍馬に依頼
黒田清隆を使って、長州との同盟工作をすすめる
朝廷が幕府の武力を恐れ、長州再征の勅許を下す
1866年 38歳 京都で、坂本龍馬の立ち合いのもと、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩長同盟を締結
坂本龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されるが、薩摩藩邸が保護
小松帯刀、家老の桂久武、薩摩藩士の吉井友実、坂本龍馬・おりょう夫妻とともに大坂から出航、鹿児島へ帰還
小松帯刀、桂久武らとともに藩政改革に着手
第二次長州征伐
    嫡男、寅太郎が誕生
将軍、徳川家茂が大坂城にて病死
大目付、陸軍掛、家老座出席に
    徳川慶喜、第15代将軍に
1867年 39歳 島津久光を奉じ、精鋭700名を率いて上洛、四侯会議を準備
    四侯会議が徳川慶喜によって不調に終わる
土佐藩の乾退助、谷干城らと、討幕計画を決定(薩土密約)
長州藩の騎兵隊員、山縣有明を訪問、討幕の決意を伝える
小松帯刀、大久保利通、伊地知正治、山縣有朋、品川弥二郎らと会談、改めて薩長同盟を誓約
土佐藩坂本龍馬、後藤象二郎、福岡孝弟らと会談、武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を締結
●大政奉還
土佐藩が単独で、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出
同日、朝廷より、討幕と会津藩、桑名藩討伐の密勅が下される
翌日、朝廷より、大政奉還を勅許するとの御沙汰が下される
密勅を持って鹿児島へ帰還、藩論をまとめると、島津忠義を奉じて3000の兵で出兵
王政復古の大号令発布のための工作を行う
薩摩藩、芸州藩、尾張藩、越前藩に宮中警護のための出兵命令が出され、これまでの会津藩、桑名藩に取って代わる
1868年 40歳 王政復古の大号令
●戊辰戦争
大坂の旧幕府軍が上京、薩長軍と戦闘開始(戊辰戦争の開始)(鳥羽・伏見の戦)
徳川慶喜、松平容保、松平定敬らとともに大坂城から脱出、開陽丸で江戸へ向かう
新政府、徳川慶喜追討令を発布、有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任命
東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)に任じられる
東征大総督府下参謀に任じられる
先鋒軍を率いて東へ向かい、箱根を占領
駿府で徳川慶喜の使者、山岡鉄舟と会見、徳川処分案7ヶ条を示す
大総督府から、3月15日江戸総攻撃の命令を受け取る
11日に江戸に入り、池上本門寺に本陣を置く
    ●江戸城無血開城
勝海舟江戸城無血開城を交渉、勝海舟から徳川処分案を受け取る
大総督、有栖川宮熾仁親王に徳川処分案を披露
上京し、徳川処分案を朝議にかけて了承を得る
勅使、橋本実梁らと江戸城へ入り、謹慎中の慶喜に替わる旧幕府の代表となっていた田安慶頼に勅書を伝える
4月11日、江戸城が無血開城される
上野の彰義隊を攻め勝利(上野戦争)
鹿児島へ帰還
健康を害し、日当山温泉で湯治
1869年 41歳 参政、一代寄合に
藩政の改革や兵制整備に注力
兵を率いて函館戦争の応援に向かうが、函館に到着する前に終戦
帰路、東京で賞典禄永世2,000石を下賜される
鹿児島郡武村に屋敷地を購入
正三位に叙せられる
1870年 42歳 参政を辞し、相談役に
相談役を辞し、執務役
太政官から鹿児島藩大参事に任命される
村田新八、大山巌、池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察
鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武が、時勢非難の諫言書を太政官正院の門に投じて自刃
役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあると知り、薩摩出身の役人や軍人の鹿児島帰還を促すために池上四郎を東京に派遣
危機感を抱いた政府から勅使、岩倉具視、副使、大久保利通が鹿児島に来訪、出仕を促されるが拒否
欧州視察から帰国した弟、西郷従道の説得を受け、政治改革のための上京を承諾
1871年 43歳 東京へ赴き、政府直属軍隊である御親兵の創設を決定
鹿児島藩、山口藩、高知藩の兵を、御親兵に編成する命令が出される
5千の常駐兵を率いて上京
制度取調会の議長となり、新官制や内閣人事、廃藩置県等を審議
明治天皇、廃藩置県の詔書を下す
新官制が決定
内閣人事が決定
特命全権大使の岩倉具視、副使の木戸孝允大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団(岩倉使節団)が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発すると、留守政府を任せられる
1872年 44歳 兵部省を廃止して陸軍省、海軍省を設置
御親兵を廃止して近衛兵を設置
明治天皇の関西、中国、西国巡幸に随行
陸軍元帥兼参議に任命される
山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督、山縣有朋が辞任
    ●対朝鮮政策の軋轢
    朝鮮との修好条約締結問題解決に向け、池上四郎らを満州や釜山に派遣
1873年 45歳 徴兵令の実施により元帥が廃止され、陸軍大将兼参議に
対朝鮮政策(征韓論)を巡り政府内で軋轢発生、木戸孝允大久保利通、大隈重信、大木喬任らの参議が辞表を提出、太政大臣の三条実美が急病となる事態に
岩倉具視が太政大臣代行となり、西郷案が消滅、これにより参議と近衛都督を辞職
その後、板垣退助ら参議をはじめ、約600名が辞職(明治6年の政変)
鹿児島へ帰還し、武村の自宅で過ごす
    ●私学校
1874年 46歳 鹿児島に増加していた無職のものたちの統制を行うために、私学校を創設
1875年 47歳 吉野開墾社を創設
1876年 48歳 廃刀令と金禄公債証書条例により、武士の特権が奪われたことで、各地に士族による乱が起こる
鹿児島県士族の反乱を恐れた政府が、鹿児島県下の火薬庫から火薬や弾薬を運びださせ、また大警視の川路利良に従い多くの巡査とともに帰国し、県下の情報探索や私学校の瓦解工作を開始
    ●西南戦争
1877年 49歳 私学校の生徒が陸軍の草牟田火薬庫を急襲
私学校本校で協議し、政府問罪のために大軍を率いて出兵(西南戦争)
田原坂の戦
城山決戦で敗戦を認め、別府晋介に首を刎ねさせる
死没 1877年9月24日(明治10年9月24日) (享年49歳)
レクイエム 墓所は鹿児島市の南洲墓地。