王政復古や版籍奉還を成功させた薩摩の討幕派
大久保利通おおくぼ としみち
画像
誕生 1830年9月26日(文政13年8月10日)
生誕地 薩摩国鹿児島
先祖など   
大久保利世
福(皆吉鳳徳の娘)
正袈裟(幼名)、正助、利済、一蔵、利通、甲東(号)
官名 贈従一位
藩職 記録所書役助、御蔵役、徒目付、勘定方小頭格、御小納戸役、御小納戸頭取、御側役
新政府 参与、参議、大蔵卿、内務卿、宮内卿
近親など 正妻:満須子(早崎七郎右衛門の娘)
子:大久保利和、牧野伸顕、大久保利武、大久保利夫、石原雄熊、大久保駿熊、大久保七熊、伊集院芳子、大久保利賢、西郷菊次郎、菊草(菊子)
ゆかりの地 GOOGLE MAP 薩摩国 鹿児島城下の生誕地
GOOGLE MAP 薩摩国 鹿児島城
GOOGLE MAP 武蔵国 終焉の地(紀尾井坂の変)
略歴
●薩摩
1830年 1歳 薩摩国薩摩藩下級武士、大久保利世の長男として生まれる
その後、藩校、造志館で学び、同じ郷中の西郷隆盛らの親友に
1844年 15歳 元服し、大久保正助と名乗る
1846年 17歳 記録所書役助として藩に出仕
    ●謹慎
1851年 22歳 お由羅騒動(薩摩藩の後継者争い)では父とともに連座、謹慎処分に
これにより、貧困生活を強いられる
    ●復帰
1853年 24歳 藩主、島津斉彬により謹慎が解かれ、記録所に復職し、御蔵役に
1856年 27歳 13代将軍、徳川家定に、島津斉彬の養女、篤姫が嫁ぐ
1857年 28歳 徒目付となり、精忠組の主導者に
1858年 29歳 藩主、島津斉彬が鹿児島で急死
斉彬の弟、島津久光の子で、斉彬の養嗣子となっていた島津忠義が藩主に
これにより、西郷隆盛が失脚
新藩主、島津忠義の父(国父)、島津久光に接近
1860年 31歳 勘定方小頭格に
    ●藩政
1861年 32歳 御小納戸役となり、藩政に参加
1862年 33歳 大久保一蔵と名乗る
    ●国政
国父、島津久光を奉じて京都の政局へ進出、岩倉具視らとともに公武合体を目指す
一橋慶喜(徳川慶喜)の将軍後見職就任に貢献
松平春嶽の政事総裁職就任に貢献
御小納戸頭取となり、島津久光の側近に
1863年 34歳 御側役に
1865年 36歳 大久保利通と改名
1866年 37歳 第二次長州征伐が始まるが、薩摩藩の参陣を拒否
    将軍、徳川家茂が大坂城にて病死
1867年 38歳 一橋慶喜、第十五代将軍に(徳川慶喜)
薩土密約
薩土盟約
西郷隆盛、小松帯刀とともに、四侯会議を開催させる
四侯会議が徳川慶喜によって不調に終わる
●大政奉還
土佐藩が単独で、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出
同日、朝廷より、討幕と会津藩、桑名藩討伐の密勅が下される
翌日、朝廷より、大政奉還を勅許するとの御沙汰が下される
薩摩藩、芸州藩、尾張藩、越前藩に宮中警護のための出兵命令が出され、これまでの会津藩、桑名藩に取って代わる
    ●王政復古の大号令
1868年 39歳 討幕派の公家、岩倉具視らとともに王政復古を決行(王政復古の大号令)
    新政府の参与に
    小御所会議に出席
●戊辰戦争
大坂の旧幕府軍が上京、薩長軍と戦闘開始(戊辰戦争の開始)(鳥羽・伏見の戦)
徳川慶喜、松平容保、松平定敬らとともに大坂城から脱出、開陽丸で江戸へ向かう
新政府、徳川慶喜追討令を発布、有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任命
江戸城無血開城
1869年 40歳 参議に
版籍奉還を実行
    ●大蔵卿
1871年 42歳 大蔵卿に
廃藩置県を実行
岩倉使節団の副使として、アメリカやヨーロッパを外遊
1873年 44歳 外遊中に、朝鮮出兵を巡る征韓論が起こり、西郷隆盛や板垣退助らによって朝鮮への使節派遣が決定される
帰国後、朝鮮への使節派遣を中止に追い込む
征韓論に関わった西郷隆盛や板垣退助を失脚させる(明治六年政変)
    ●内務卿
内務省を設置し、内務卿に
    学制、地租改正、徴兵令などを実施
富国強兵をスローガンに、殖産興業政策を推進
1874年 45歳 佐賀の乱が起こると自ら出兵し、これを平定
宮古島島民遭難事件を受け、台湾出兵を決行
1875年 46歳 李氏朝鮮へ対し軍艦を派遣し、武力衝突に発展(江華島事件)
海運政策樹立に関する意見書を、台上大臣の三条実美に提出
1877年 48歳 西南戦争では、京都に於いて政府軍を指揮
上野公園での第1回内国勧業博覧会を開催
    ●紀尾井坂の変
1878年 49歳 紀尾井坂にて暗殺される(紀尾井坂の変)
死没 1878年5月14日(明治11年5月14日) (享年49歳)
レクイエム 西郷隆盛木戸孝允とともに維新三傑と呼ばれる。