田沼政治を否定し断行した寛政の改革
松平定信まつだいら さだのぶ
画像
誕生 1759年1月25日(宝暦8年12月27日)
生誕地 江戸城
先祖など 徳川吉宗(祖父)
実父:徳川武武(田安徳川家)、養父:松平定邦(久松松平家)
実母:とや(尾張徳川家家臣、山村三演の娘)(香詮院)、養母:近衛通子(宝蓮院殿)
賢丸(幼名)、松平定信、楽翁、花月翁、風月翁、白河楽翁、たそがれの少将(通称)
官名 従五位下、上総介、越中守、従四位下、侍従、左近衛権少将、贈正三位
藩職 陸奥国磐城白河藩主
幕職 老中首座、将軍補佐
近親など 兄:徳川小次郎、徳川銕之助、徳川友菊、徳川乙菊、徳川治察、徳川定国
正室:松平定邦の娘
継室:隼姫(加藤泰武の娘)
側室:貞順院
子:松平定永、真田幸貫、福姫(松平定則の正室)、清昌院(諏訪忠恕の正室)、保寿院(加藤泰済の正室)、寿姫(牧野忠鎮の正室・内藤信敦の継室)、蓁(松浦熙の正室)、娘(松平輝健の正室)
養子:養女(加藤泰候の娘、松平信志の正室)、養女(真田幸貫の娘、朽木綱條の継室)
ゆかりの地 GOOGLE MAP 武蔵国 田安邸
GOOGLE MAP 武蔵国 江戸城
略歴
●田安徳川家の七男
1759年 1歳 徳川御三卿である田安徳川家、徳川武武の七男として生まれる
1762年 5歳 田安邸が焼失、一時的に江戸城本丸に移る
1763年 6歳 病を得、一時危篤状態に
●田沼時代
1767年 10歳 この頃より、老中、田沼意次による田沼政治が始まる(田沼時代)
その後、田沼政治を賄賂政治を批判するように
●白河藩
1774年 17歳 陸奥国磐城白河藩主、松平定邦の養子に出されるが、しばらくは田安邸で過ごす
田安徳川家を継いでいた兄、徳川治察が死没
残る一人の兄、徳川定国は伊予国松山藩の養嗣子となっていたため、田安家の継承者が不在となったことから復帰を要請するが、幕府から許可が下りず
1782年   天明の大飢饉
●白河藩主
1783年 26歳 養父、松平定邦から家督を譲られ、白河藩主に
その後、天明の大飢饉により悪化していた藩政を立て直す
1786年 29歳 将軍、徳川家治が死没、徳川家斉が将軍に
この前後、老中、田沼意次が失脚
    ●老中首座・寛政の改革
徳川御三卿の推挙により、老中首座兼将軍補佐に
天明の打ちこわし
田沼勢力を一掃
祖父、徳川吉宗の享保の改革を手本に、また田沼政治の否定を基本に幕政改革を開始(寛政の改革)
1790年 33歳 養父、松平定邦が死没
1792年 35歳 ロシアのラスクマンが根室に来航、通商を求められる
1793年 36歳 ラスクマンに対し、長崎のオランダ商館と交渉するように、と回答、ラスクマンはロシアに帰国
海防強化を開始
    ●失脚
出張中に、老中首座と将軍補佐を解任される
その後藩政は、三河国吉田藩主の松平信明や越後国長岡藩主の牧野忠精をなど定信派の老中が継承(寛政の遺老)
その後は白河藩政改革に注力、馬の生産を奨励、効果をあげたことなどから、名君と謳われるように
1810年 53歳 老中時代に提唱した江戸湾警備が採用され、白河藩が最初の駐屯を命じられる
これにより藩の財政が悪化
1812年 55歳 隠居し、長男の松平定永に家督を譲る
1829年 72歳 死没
死没 1829年6月14日(文政12年5月13日) (享年72歳)
レクイエム 老中首座と将軍補佐の突然の解任理由は、尊号一件(光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうしたことや、将軍、徳川家斉が、父である治済に大御所の尊号を贈ろうしていたことに対し、朱子学を奉じていた定信がそれに反対したことから軋轢が生じた)によるとされる。(異説あり)