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熊本藩くまもとはん
画像
肥後国
藩庁 熊本城
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立藩 1600年(慶長5年)
外様
略歴
西暦 出来事 石高  藩主
1600年 加藤清正小西行長の旧領、肥後国南部24万石などを加増される 52万石 加藤清正
1606年 加藤清正、旧隈本城を大改修し熊本城と名付ける
1611年 加藤清正浅野幸長とともに、家康と豊臣秀頼二条城での対面を仲介
加藤清正が死没
子の加藤忠広が藩主に 加藤忠広
1632年 駿河大納言事件に連座し、加藤家は改易に
豊前国小倉藩(39万9千石)から細川忠利が加増の上、転封 54万石 細川忠利
1637年 細川忠利、島原の乱に参陣
1641年 細川忠利が死没
子の細川光尚が藩主に 細川光尚
1643年 阿部弥一右衛門の殉死事件
1645年 従弟の細川行孝に3万石を分知(宇土藩)
細川光尚、藩政改革を推進
1649年 細川光尚が死没
子の六丸(細川綱利)が、6歳にして藩主に 細川綱利
1653年 藩主、六丸、元服し細川綱利と名乗る
1662年 弟の細川利重に5千石を分与
1666年 江戸鉄砲洲に3万5千石の定府を内分与(熊本新田藩)
1697年 熊本新田藩主、細川利武に5千石を分与
1702年 細川綱利、江戸城登城時に、赤穂事件を起こした大石良雄ら浪士17名の預かりを命じられる  
1712年 細川綱利が隠居
養子となっていた熊本新田藩主の細川利武(宣紀)が藩主に 細川宣紀
1722年 この年より洪水や旱魃などによる飢饉が続き、藩財政が窮乏
1732年 細川宣紀が死没
子の細川宗孝が藩主に 細川宗孝
1747年 細川宗孝が、江戸城において旗本の板倉勝該に斬りつけられ死没(家紋の見間違いによる人違い)(細川の七つ紋)
仙台藩主、伊達宗村の機転により弟の細川重賢を末期養子としたことから改易を免れ、細川重賢が藩主に 細川重賢
1752年 細川重賢、藩財政の立て直しに着手(宝暦の改革)
1754年 藩校、時習館を設立し、身分を問わず、また藩外にまで門戸を開く   
1756年 日本初の医学校、再春館を設立   
1782年 天明の大飢饉の際、細川重賢は私財を投げ打つなどで領民の救済にあたる
1785年 細川重賢が死没
子の細川治年が藩主に 細川治年
1786年 天災により米価が高騰、領内にも打ち壊しが起こる
1787年 細川治年が死没
子がなかったため、義弟で宇土藩主の細川立礼(斉茲)が藩主に 細川斉茲
1792年 細川斉茲、銀札を発行し藩財政の立て直しを図る
1802年 御銀所騒動(藩財政の立て直しが失敗)
1810年 細川斉茲が隠居
子の細川斉樹が藩主に 細川斉樹
細川斉樹、倹約を命じ藩の財政の立て直しに着手
1826年 細川斉樹が死没
甥で宇土藩主の細川斉護が藩主に 細川斉護
1841年頃 藩政改革を巡り、横井小楠や長岡是容ら改革派と松井佐渡ら保守派が対立
1860年 細川斉護が死没
子の細川慶順(韶邦)が藩主に 細川韶邦 
1862年 細川慶順(韶邦)、藩論を尊王論に統一
1867年 大政奉還  
1868年 戊辰戦争が始まると、細川慶順(韶邦)は新政府への恭順を表すため、徳川慶喜から偏諱を受けた「慶順」から「韶邦」に改名
1870年 細川韶邦が隠居  
  弟の細川護久が藩主に   細川護久
1871年 廃藩置県