幕臣となり英雄となった新選組隊長
近藤勇こんどう いさみ
画像
誕生 1834年11月9日(天保5年10月9日)
生誕地 武蔵国上石原村
先祖など   
実父:宮川久次郎、養父:近藤周斎
実母:みよ(ゑい)、養母:近藤ふで
勝五郎(幼名)、勝太(幼名)、宮川勝五郎、嶋崎勝太、嶋崎勇、近藤勇、近藤昌宜、大久保剛、大久保大和
官名  
幕職 旗本、甲陽鎮撫隊隊長
藩職 会津藩預壬生浪士組局長、会津藩預新選組局長
新政府  
近親など 姉:宮川リエ
兄:宮川音五郎、宮川粂次郎
正妻:松井つね(松井八十五郎の娘)
子:近藤たま、お勇など
ゆかりの地 GOOGLE MAP 武蔵国 生家
GOOGLE MAP 山城国 八木邸
GOOGLE MAP 山城国 壬生寺
GOOGLE MAP 山城国 池田屋
GOOGLE MAP 山城国 西本願寺(太鼓楼)
GOOGLE MAP 山城国 不動堂村屯地
GOOGLE MAP 武蔵国 墓所
略歴
●武蔵の百姓
1834年 1歳 武蔵国上石原村の百姓、宮川久次郎の三男として生まれる
1849年 16歳 江戸牛込の天然離心流道場、試衛場(試衛館)に入門
    ●養子
1850年 17歳 試衛場の館長で天然離心流宗家の近藤周斎の実家、嶋崎家の養子に
その後、養子縁組により嶋崎勇と名乗る
その後、近藤勇と名乗る
1853年 20歳  アメリカのペリーが黒船4隻を率いて、相模国浦賀に来航
1858年 25歳 安政の大獄 
1860年 27歳 御三卿の清水徳川家家臣、松井八十五郎の娘、松井つねと結婚
桜田門外の変
1861年 28歳 天然離心流宗家の四代目に
1862年 29歳 長女、たまが誕生
●浪士組
1863年 30歳 将軍、徳川家茂の上洛警護のための浪士組に、門下の7名とともに応募
浪士組が京都に到着
清河八郎が、浪士組の真の役割は、尊王攘夷の先鋒になることであると打ち明ける
攘夷断行のために江戸帰還を主張する派と、京都に残り将軍警護に当たるべきと主張する派に分裂するが、近藤勇や芹沢鴨(水戸藩浪士)ら24名が京都に残留することに
●壬生浪士組
幕府から京都の治安維持を命じられた会津藩主の松平容保に対し、市中警護を行う旨嘆願し認められ、会津藩預かりの「壬生浪士組」に
    芹沢鴨が筆頭局長、近藤勇が局長に
その後、組内は近藤一派(試衛館一派)、芹沢一派、殿内・家里・根岸一派などに分裂
自前の派閥形成を目論む殿内義雄を、四条大橋で暗殺
有力浪士の根岸友山や粕谷新五郎が脱退
隊員の阿比類鋭三郎が病死
隊員の家里次郎、芹沢鴨に命じられ切腹
これらにより、浪士組は二派体制に
八月十八日の政変により、長州藩が京都から追放される
    これにより、一橋慶喜、松平容保、桑名藩主の松平定敬による一会桑政権が発足
壬生浪士組、御花畑門の警護を担当
    ●新選組
隊名「新選組」を下賜される(異説あり)
副長で芹沢一派の新見錦を自害させる
隊員の田中伊織を暗殺
筆頭局長の芹沢鴨とその一派の平山五郎を暗殺。これにより近藤体制が確立
1864年 31歳 将軍、徳川家茂が入京、二条城に入城
松平容保、陸軍総裁(のちの軍事総裁)に
福井藩主、松平慶永が京都守護職に
幕府から、新選組を松平慶永預けとする提案がなされるが、これを断る
●池田屋事件
熊本藩士、宮部鼎蔵の下僕、忠蔵を捕縛したことをきっかけに、御所焼き討ちや一橋慶喜、松平容保暗殺計画を把握
宮部一派が潜伏していた池田屋(三条小橋の旅館)を急襲、長州藩、肥後藩、土佐藩など尊攘派9名を討ち取り4名を捕縛
翌朝の掃討戦でも尊攘派の多くを討ち取り、または捕縛に成功
朝廷や幕府から感状と報奨金を拝領
禁門の変
    この頃、駐屯所を西本願寺(太鼓楼、他)に移す
隊士募集のため、江戸へ帰郷
    第一次長州征伐
1865年 32歳 大目付、永井尚志が訊問使となり長州へ赴く際、随行を願い出て許される
武田観柳斎、伊東甲子太郎ら7名の隊士とともに広島に到着
その後、長州との折衝役となるが、長州側からの拒否により断念、帰京
1866年 33歳 老中、小笠原長行の長州行きに随行
第二次長州征伐
将軍、徳川家茂が大坂城にて病死したことから、長州征伐が中止に
    一橋慶喜、第15代将軍に(徳川慶喜)
1867年 34歳 思想の違いが元で伊東甲子太郎、篠原泰之進らが新選組から分離し、総勢15名で御陵衛士を結成
●幕臣
新選組会津藩預かりから幕臣に昇格
征長の建白書を、議奏の柳原前光、正親町三条実愛に提出
土佐藩参政の後藤象二郎と、征長について会談
岡山藩家老の日置帯刀と、征長について会談
屯所を西本願寺から不動堂村に移す
御陵衛士の伊東甲子太郎が、長州寛容論の建白書を提示したため、対立が激化
朝廷より、討幕と会津藩、桑名藩討伐の密勅が下される
翌日、朝廷より、大政奉還を勅許するとの御沙汰が下される
大石鍬次郎らに命じ、伊東甲子太郎らを暗殺させる(油小路事件)
薩摩藩、芸州藩、尾張藩、越前藩に宮中警護のための出兵命令が出され、これまでの会津藩、桑名藩に取って代わることになると、これに不満を持つ
王政復古の大号令が発布される
    二条城の警備を巡り、水戸藩士らと対立
    伏見墨染において、御陵衛士の鈴木三樹三郎らの銃撃を受け肩を負傷
●戊辰戦争
1868年 35歳 大坂の旧幕府軍が上京、薩長軍と戦闘開始(戊辰戦争の開始)(鳥羽・伏見の戦)
新選組は伏見奉行所にいたが、怪我をしていたことから土方歳三が指揮を執るも敗北
新選組は、幕府の軍艦の富士山丸などで江戸に帰還
鍛冶橋門外の秋月種樹邸を屯所に
徳川慶喜に対し、甲斐国甲府城委任要請の建白書を提示
    ●甲陽鎮撫隊
幕府から甲陽鎮撫を命じされる
大久保剛に改名
新選組を「甲陽鎮撫隊」に改名
甲府へ向け進発
新政府軍の板垣退助率いる迅衝隊が、先に甲府を占拠
手前の勝沼で迅衝隊と戦うが敗北、武蔵国八王子まで敗走したのち、江戸へ引き上げる
会津で終結し再起を図ろうと、永倉新八、原田左之助らに誘われるが、自分の家臣になることを条件としたことから話は決裂
土方歳三とともに隊を再編成、旧幕府らを募集し隊士は227名に
大久保大和と改名
下総国流山に着陣
新政府軍の大軍監となった香川敬三が、会津、桑名軍の下野国宇都宮城占拠阻止のため日光街道を進軍
新政府軍を背後から襲撃する計画が発覚(自ら出頭したとの説も)、捕らえられ総督府の置かれている板橋宿に連行される
大久保大和の名を主張するが、元御陵衛士の加納鷲雄、清原清に近藤勇であることを看破される
板橋刑場にて斬首刑に
死没 1868年5月17日(慶応4年4月25日) (享年35歳)
レクイエム 墓所は東京都三鷹市の龍源寺やJR板橋駅前の寿徳治など。