討幕と明治維新を主導した長州の英傑、桂小五郎
木戸孝允きど たかよし
画像
誕生 1833年8月11日(天保4年6月26日)
生誕地 長門国
先祖など 天野元政(毛利元就の七男)
和田昌景
清子(昌景の後妻、猪口宗左衛門の姉)
和田小五郎、桂小五郎、木戸貫治、準一朗、孝允、松菊(号)
官名 贈従一位
藩職 他藩渉外役
新政府 参議、地方官会議議長
近親など 異母姉:捨子、八重子
妹:治子
妻:幾松(松子)
ゆかりの地 GOOGLE MAP 長門国 生誕の地
GOOGLE MAP 山城国 幾松寓居跡
略歴
●長州
1833年 1歳 長門国長州藩医、和田昌景の長男として生まれる
    ●桂家
1840年 8歳 病弱だったことや後妻の子だったことから、桂九郎兵衛の末期養子となり、藩士に
1841年 9歳 桂家の養母が死没 
    実家に戻る
    ●若き俊才
    その後、藩主、毛利敬親の親試で即興漢詩や孟子解説など行い褒章を得るなど、俊才として知られるように
1846年 14歳  剣術、柳生新陰流の内藤作兵衛に入門 
1848年 16歳  姉、八重子が死没 
    母、清子が死没すると、悲嘆のあまり病床に伏せる
    その後剣術に精を出し、実力を認められるように
1849年 17歳 藩校、明倫館に入門、吉田松陰の元で山鹿流兵法を学ぶ
    ●江戸
1852年 20歳 江戸へ留学、神道無念流、斎藤新太郎の練兵館に入門
1853年 21歳  黒船来航 
    才能を認められ、塾頭に
1854年 22歳  ペリーが二度目の来航をすると、代官、江川英龍に依頼し黒船を見学
    日米和親条約が締結される
    黒船来航などに影響を受け、藩に海外渡航を申し出るが許されず
    その後、江川英龍から西洋兵学や小銃術、砲台築造術などを学ぶ
    その後、浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から、造船術を学ぶ
    その後、幕府海防掛本多越中守の家来、高崎伝蔵から洋式帆船造船術を学ぶ
    その後、長州藩士、手塚律蔵から英語を学ぶ
    ●藩政
1957年 25歳  長州へ帰国
    その後、藩政にかかわるように
1859年 27歳 師である吉田松陰が、安政の大獄を受け小伝馬町の牢に投獄される
吉田松陰、斬首される
1861年頃 29歳  この頃京都の宴席で、芸子、幾松と出会う 
1862年 30歳 他藩渉外役に
周布政之助や久坂玄瑞と共に、吉田松陰の航海雄略論を採用し、藩論を開国攘夷に向ける
1863年 31歳 長州藩秘密留学生5名(井上馨、伊藤俊輔(博文)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助)が、横浜港からイギリスへ向かう、
●下関戦争
幕命を受けた長州藩が、下関で欧米艦船への砲撃を開始(下関戦争)(下関事件)
京都で久坂玄瑞や真木和泉とともに破約攘夷活動(修好条約を破棄し外国を排除)を行う
八月十八日の政変により、長州藩が京都から追放され朝敵に
1864年 32歳 新選組が、京都の池田屋に終結していた長州藩や土佐藩の尊攘派を襲撃(池田屋事件)
長州軍が京都に入り幕府軍と激突(禁門の変)すると、鳥取藩を味方に引き込むべく尊攘派の河田景与を説得するが受け入れられず
    御所から避難するはずの孝明天皇への直訴を目論むが叶わず
イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦から砲撃され、下関の砲台を占拠される(四国艦隊下関砲撃事件イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)
対馬藩士の大島友之允や幾松の援助により、京都に潜伏
但馬国の出石に移り潜伏
●第一次長州征伐
幕府による第一次長州征伐が迫ると、保守派が台頭し、藩論は幕府への恭順へ傾く
高杉晋作奇兵隊、伊藤俊輔(博文)の力士隊、石川小五郎の遊撃隊、三条実美(七卿落ちで失脚していた元公卿)らが功山寺で挙兵(功山寺挙兵)
1865年 33歳 太田・絵堂の戦を経て正義派が優勢に
保守派の椋梨藤太らが失脚、これにより高杉晋作らが藩政を掌握
高杉晋作や大村益次郎からの要請を受け藩政に復帰
    ●薩長同盟
1866年 34歳 土佐藩の坂本龍馬馬、中岡慎太郎、土方久元の仲介により、薩摩藩との盟約が成立(薩長同盟)
その後、長州藩の代表として薩摩藩の小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛、黒田清隆らと会談
薩摩藩名義でイギリスから武器や軍艦を購入
    ●第二次長州征伐
第二次長州征伐(四境戦争)が始まるが、長州藩が優勢に
将軍、徳川家茂が死没
これを受けて幕府軍のうち、熊本藩、久留米藩、柳川藩、唐津藩、中津藩が撤兵
幕府軍総督の小笠原長行が小倉から離脱
小倉藩は小倉城に火を放って逃亡、これにより長州藩の勝利が確定
1867年 35歳 大政奉還
徳川慶喜、将軍職を返上
1868年 36歳 王政復古の大号令
    戊辰戦争
    五箇条の御誓文の起草に参画
    江戸城の無血開城
1869年 37歳  戊辰戦争が終結
●明治新政府
明治新政府では参議に任命され、外国事務係や総裁局顧問に
    木戸孝允に改名
版籍奉還を実現させる
1870年 38歳 脱走兵に命を狙われる 
    幾松と入籍
1871年 39歳 岩倉使節団の全権副使となり、欧米を歴訪
    その後、西郷隆盛を参議に就任させるなどの大久保利通の独裁政治に不満を持つように
1873年 41歳 帰国 
    朝鮮派遣使節反対意見書を提出
1874年 42歳 台湾出兵に反対したことから参議を辞任
1875年 43歳 大久保利通、伊藤博文、井上馨から復帰を要請され大阪会議に出席、立憲政体樹立、三権分立、二院制議会確立を条件に参議に復帰
これにより立憲政体の詔書が出される
地方官会議議長となって第一回会議を開催、地方警察、地方民会など地方自治確立促進のための5法案が可決される
    その後病を得る
1877年 45歳 西南戦争が始まる
京都の別邸で病死
死没 1877年5月26日(明治10年5月26日) (享年45歳)
レクイエム 子供頃は病弱ながらかなりの悪童だった。

剣豪ではあるが喧嘩は好まず、「逃げの小五郎」と揶揄されていた。

かなりの大酒飲みで、死因も酒害であったといわれる。