咸臨丸でアメリカに渡った幕末三舟のひとり
勝海舟かつ かいしゅう
画像
誕生 1823年3月12日(文政6年1月30日)
生誕地 武蔵国江戸本所亀沢町
先祖など 米山検校(祖父)
勝小吉
信(勝元良の娘)
勝鱗太郎、義邦、安芳、海舟
官名 従五位下、安房守、外務大丞、兵部大丞、海軍大輔、従四位、参議兼海軍卿、正四位、元老院議官、伯爵、従三位、枢密顧問官、正三位、従二位、贈正二位
藩職 異国応接掛附蘭書翻訳御用、海軍伝習重立取扱、講武所砲術師範役、天守番頭過人、蕃書調所頭取助、天守番頭格、二の丸留守居格軍艦操練所頭取、軍艦奉行並、海軍伝習掛、海軍奉行並、陸軍総裁、軍事取扱
新政府 外務大丞、兵部大丞、海軍大輔、海軍卿、元老院議官
近親など 妹:順子(佐久間象山の正室)
正妻:民子
妾:梶玖磨、増田糸、小西かね、清水とよ、森田米子
子:内田夢、疋田孝子、小鹿、目賀田逸子、四郎、梶梅太郎、八重、岡田七郎、妙子
ゆかりの地 GOOGLE MAP 武蔵国 生誕の地
GOOGLE MAP 武蔵国 江戸城
GOOGLE MAP 摂津国 神戸海軍操練所跡
GOOGLE MAP 武蔵国 墓所
略歴
●江戸本所
1823年 1歳 旗本、勝小吉の長男として生まれる
1829年 7歳  将軍、徳川家斉の孫、初之丞(一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へあがる
1831年 9歳  野良犬に襲われ重症
    回復
    その後、島田虎之助の道場で剣術を学び、直心影流の免許皆伝に
    また、禅や兵学、蘭学なども学ぶ
1838年 16歳 一橋慶昌が早世
    ●家督
父が隠居、家督を相続
1850年頃 28歳  蘭学者、佐久間象山の勧めにより、西洋兵学と蘭学の私塾を田町に開く
    ●幕政
1853年 31歳  黒船来航を受け、海防に関する意見書が公募されると意見書を提出、老中、阿部正弘の目に留まる 
1854年 32歳  日米和親条約が締結される
1855年 33歳  目付兼海防掛の大久保忠寛(一翁)の知遇を得、異国応接掛附蘭書翻訳御用となり幕政に参加
    ●長崎
長崎海軍伝習所に入門、長崎へ
オランダ語が話せたことから、伝習生とオランダ人教官の連絡役に
1858年 36歳 薩摩藩主、島津斉彬を訪問
安政の大獄
外国奉行、永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、渡米を希望、了承される
1859年 37歳 朝陽丸で江戸に戻る
築地の軍艦操練所教授方頭取に
    ●渡米
1860年 38歳 正使、新見正興、副使、村垣範正、目付、小栗忠順らアメリカ海軍のポーハタン号で渡米することになると、その護衛として同道することになった軍艦、咸臨丸に乗船、サンフランシスコへ
    桜田門外の変
アメリカでは、文化の違いに大きな衝撃を受ける
帰国後、蕃書調所頭取助に
1861年 39歳 講武所砲術師範となり、海軍から離れることに
    ●復帰
1862年 40歳 文久の改革を受け軍艦操練所頭取に。これにより海軍に復帰
その後、公議政体論を支持、幕府の海軍ではなく「日本の海軍」の必要性を感じるように
この頃、坂本龍馬の訪問を受ける
    イギリス船ジンキー(順動丸)を15万ドルを購入
同志の大久保忠寛(一翁)が失脚
同志の横井小楠が刺客に襲撃される
将軍、徳川家茂の上洛に向けて、老中格、小笠原長行を乗せて大坂へ
兵庫にて、海軍操練所建造を提案
1863年 41歳 江戸へ戻る
将軍、徳川家茂の上洛が陸路に決定
順動丸で大坂へ先乗り
    将軍、徳川家茂、朝廷から攘夷の実行を迫られ承諾
    これを受けて、松平春嶽が無断で京都を離れる
    ●神戸海軍操練所
京都から大坂へ下った将軍、徳川家茂を、順動丸で兵庫へ案内、神戸港を中枢港湾にするよう提言、承諾を得る
同道した公家の姉小路公知とも懇意に
私塾、神戸海軍塾の開設を許される
神戸海軍操練所を設立、年3000両の援助金を取り付ける
製鉄所の設立を命じられる
姉小路公知が暗殺される(朔平門外の変)
    小笠原長行が、5隻の船に千数百の兵を分乗し上洛を図るが、将軍、徳川家茂から差し止められる
将軍、徳川家茂が朝廷から江戸帰還を許されると、順動丸で送迎
福井藩で、同志の横井小楠が失脚
八月十八日の政変により、長州藩が京都から追放され朝敵に
老中、酒井忠績を乗せ順動丸で上洛、将軍、徳川家茂の再上洛準備を行う
一旦江戸へ帰還
将軍、徳川家茂の再上洛に順動丸で送迎
1864年 42歳 前年に起こった長州藩の外国船への砲撃による報復を抑えるため、将軍、徳川家茂の命を受け、長崎にてオランダ総領事、ポルスブルックと交渉するが実らず
イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦が、長州藩の下関砲台を占拠(四国艦隊下関砲撃事件)
期待していた参与会議が、一橋慶喜の策動をうけ解体
軍艦奉行に
神戸海軍操練所が設置される
佐久間象山が暗殺される
禁門の変
第一次長州征伐が迫る
    ●失脚
軍艦奉行を解かれ、蟄居処分に
1865年 43歳 神戸海軍操練所が閉鎖に
西郷隆盛と面談
    ●復帰
1866年 44歳 軍艦奉行に復帰
老中、板倉勝静の命により大坂へ向かい、薩摩藩と会津藩の対立解消に向け交渉するが実らず
第二次長州征伐(四境戦争)が始まるが、長州藩が優勢に
将軍、徳川家茂が死没
これを受けて幕府軍のうち、熊本藩、久留米藩、柳川藩、唐津藩、中津藩が撤兵
徳川宗家を継いだ(将軍については固辞)徳川慶喜から京都に召還され、第二次長州征伐の停戦交渉を命じられる
長州藩の広沢真臣や井上馨と交渉するが、敗色濃厚だったことから思うようにはいかず
幕府軍総督の小笠原長行が小倉から離脱
小倉藩は小倉城に火を放って逃亡、これにより長州藩の勝利が確定
徳川慶喜が停戦の勅命を引き出すと、これに憤慨、御役御免を願い出るが受理されず
    徳川慶喜、第15代将軍に
1867年 45歳 大政奉還
徳川慶喜、将軍職を返上
1868年 46歳 王政復古の大号令
    戊辰戦争が始まると徳川慶喜は、官軍に対する徹底抗戦を主張する小栗忠順を罷免
替わって召し出され、海軍奉行並に
陸軍総裁に
    ●江戸城無血開城
官軍の東進を受け、早期停戦と江戸城の無血開城を主張
    恭順の意思を示し上野寛永寺に謹慎することを決めた徳川慶喜から、全権を委ねられる
駿府にいる西郷隆盛との交渉に山岡鉄舟が派遣され、開戦回避への基本条件(7条件)が決定
開戦直前、江戸の薩摩藩邸にて西郷隆盛らと会談、江戸城の無血開城が決定
1869年 47歳  戊辰戦争が終結
●明治新政府
明治新政府では外務大丞に
外務大丞を辞任
兵部大丞に
1870年 48歳 兵部大丞を辞任
1871年 49歳 廃藩置県
1872年 50歳 海軍大輔に
1873年 51歳 西四辻公業とともに勅使として鹿児島へ下向し、島津久光を東京へ上京させる
海軍卿に
1874年 52歳 台湾出兵に反対し、出仕を停止
1875年 53歳 元老院議官に
    ●下野
元老院議官を辞任
(中略)
1887年 65歳 伯爵に 
1888年 66歳 大日本帝国憲法制定時の枢密院審議において、顧問官に
1892年 70歳 徳川慶喜と和解
(中略)
1899年 77歳 死没
死没 1899年1月19日(明治32年1月19日) (享年77歳)
レクイエム 死因は脳溢血で、最期の言葉は「コレデオシマイ」であった。