桜田門外で暗殺された井伊の赤鬼
井伊直弼いい なおすけ
画像
誕生 1815年11月29日(文化12年10月29日)
生誕地 近江国 彦根城
先祖など 井伊直政(初代彦根藩主)
実父:井伊直中(13代彦根藩主)
養父:井伊直亮(兄)
お富の方(側室)
鉄之介、鉄三郎、井伊直弼、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水、井伊の赤鬼(通称)
官名 従四位下、侍従、玄蕃頭、左近衛権少将、掃部頭、左近衛権中将、従四位上、正四位上
藩職 近江国彦根藩主
幕職 大老
近親など 兄:井伊直清、穠姫、井伊直亮、井伊中顕、中川久教、内藤政成、松平勝権、井伊直元、内藤政優
弟:内藤政義
正室:貞鏡院(昌子)(松平信豪の娘)
側室:千田静江(千田高品の養女、秋山正家の娘)、西村里和(西村本慶の娘)
子:井伊直憲、井伊直咸、井伊直安、井伊直達、弥千代 (松平頼聰の正室)、待子(青山幸宜の継室)
ゆかりの地 GOOGLE MAP 近江国 彦根城
GOOGLE MAP 武蔵国 江戸城
GOOGLE MAP 武蔵国 桜田門外の変跡
略歴
●彦根
1815年 1歳 近江国彦根藩主、井伊直中の十四男として生まれる
●部屋住み
1831年  17歳  父が死ぬと、三の丸尾末町の屋敷(埋木舎)に移り300俵の部屋住みとなる
その後、長野主膳に師事し国学を学ぶ。また茶道、和歌、鼓、禅、兵学、居合術なども学ぶ
●兄の後継者
1846年 32歳 兄で藩主の井伊直亮の世継ぎとなっていた、兄(直中の十一男)、井伊直元が病死したとことから、直亮の養子となり次期藩主に
    ●彦根藩主
1850年 36歳 井伊直亮が死没。これにより彦根藩主に
1852年 38歳 丹波国亀山藩主、松平信豪の次女、昌子(貞鏡院)と結婚
その後、藩政改革に手腕を発揮
江戸城では奥に最も近い溜詰筆頭として、様々な重要問題に当たる
    ●黒船
1853年 39歳 アメリカのペリーが黒船で来航すると、その防備を担当
ペリーの開国要求に対しては、開国し交易を行うべきと主張
老中首座の阿部正弘(福山藩主)が、徳川斉昭(水戸藩主)や、松平春嶽(慶永)(福井藩主)ら攘夷派を幕政に参加させると、これらと対立
1854年 40歳  日米和親条約が締結される
1855年 41歳 徳川斉昭が開国派の松平乗全(老中・西尾藩主)と松平忠固(老中・上田藩主)の更迭を要請、阿部正弘がこれを決行すると猛抗議を行う
阿部正弘、直弼と同じ溜詰の開国派である堀田正睦(佐倉藩主)を老中に起用、いきなり老中首座に就かす
    安政江戸地震
1857年 43歳 阿部正弘が死没
老中首座の堀田正睦が、松平忠固を老中に復帰させたことで、開国派が勢いを取り戻す
十三代将軍、徳川家定の継嗣問題では、徳川慶福(紀州藩主)を推薦し、実子(七男)の一橋慶喜を推薦する徳川斉昭らと対立
    ●大老
1858年 44歳 松平忠固や水野忠央(紀州藩の家老・新宮藩主)ら南紀派の工作により、大老に就任
アメリカのハリスが通商条約締結を迫ると、孝明天皇の勅許を仰ぐよう指示
下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震が、勅許を待たず日米修好通商条約に調印
これが勅許違反として、徳川斉昭ら一橋派から攻撃される
徳川家定が死没
将軍継嗣問題で一橋派に勝利し、徳川慶福を十四代将軍に就けることに成功(徳川家茂)
これらに激怒した水戸藩士らが朝廷への働きかけを行うと、孝明天皇は戊午の密勅を下賜し、幕府だけでなく水戸藩に対しても非難
    ●安政の大獄
戊午の密勅は朝廷の幕政関与として問題視し、取り調べの結果、儒学者の梅田雲浜を首謀者として捕縛(安政の大獄の始まり)
無勅許調印の責任を、自派である堀田正睦と松平忠固にとらせ失脚させる
太田資始(掛川藩主)、間部詮勝(鯖江藩主)、松平乗全を老中に就けることで、尊王攘夷派に対する圧力を強化
間部詮勝を戊午の密勅関連の調査の為京都へ派遣した際、討幕が計画されていることをつきとめたことから、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎などの志士や中川宮朝彦親王らを捕縛、厳しく取り調べる
無断で江戸城に登城した、徳川斉昭、一橋慶喜、松平春嶽らを謹慎処分に
勅許を待たずハリスと調印した岩瀬忠震(外国奉行)、川路聖謨(海岸防禦御用掛)、水野忠徳(外国奉行)、永井尚志(外国奉行)らを左遷
直弼を批判した久世広周(老中・関宿藩主)、板倉勝静(寺社奉行・備中松山藩主)らを免職
1859年 45歳 安藤信正(若年寄・磐城平藩主)を水戸藩に派遣、戊午の密勅の返納を迫る
徳川慶篤(水戸藩主)が密勅の幕府返納を決めると、過激派の武士たちが激昂
1860年 46歳 安藤信正を老中に就ける
    ●桜田門外の変
安藤信正に命じ、登城した徳川慶篤に対し1月25日までに勅許を返納しない場合は水戸藩を改易にすると迫らせる
    これを受け、水戸藩を脱藩した高橋多一郎や関鉄之介らが直弼襲撃を計画
    屋敷を出て江戸城へ向かう途中の桜田門外で関鉄之介ら水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士18名に急襲され死没(桜田門外の変)
死没 1860年3月24日(安政7年3月3日) (享年46歳)
レクイエム 墓所は菩提寺の豪徳寺。
混乱を恐れた幕府は、暗殺されたことを隠して負傷による休養と発表、3月30日に大老職を解き閏3月30日に死を公表した。