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出来事一覧(五十音順)
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参勤交代制度 寛永12年(1635年)、将軍、徳川家光が制定した、藩主を1年置きに江戸に出仕させる制度。

藩主は1年江戸で、1年に国元で過ごすが、正室や世嗣(世継ぎ)は江戸在住が義務付けられていた。
領国と江戸の移動にかかる旅費により財政を厳しくさせ、軍事力を低下させることと、妻子を人質に取ることで幕府への反抗を封じることが目的。

参勤交代は行軍とみなされ、石高や格式によって行列の人数や内容が細かく定められていた。例えば10万石の大名の場合、馬上10名、足軽80名、中間・人足140〜150名など。
四侯会議 慶応3年(1867年)5月、政治の主導権を幕府から諸藩に移す目的で、雄藩代表者4名により京都で行われた会議。

主導したのは薩摩藩。

メンバーは、越前藩(前藩主)松平春嶽、土佐藩(前藩主)山内容堂、宇和島藩(前藩主)伊達宗城、薩摩藩(藩主の父)島津久光。

結果的には、徳川慶喜との政局に敗れて短期間で頓挫した。
島原の乱 



寛永14年10月25日(1637年12月11日)、肥前国島原藩と唐津藩との飛地、肥後国天草諸島の領民たちが、飢饉や藩からの圧政や重税、さらにはキリシタンの迫害を受け起こした反乱で、江戸時代最大の一揆。

一揆勢は、関ヶ原の戦で改易となった小西行長の旧臣、岡本大八事件により改易された有馬晴信の旧臣、5年前に改易された加藤忠広の旧臣、農民、キリシタン、禁教令によって止む無く棄教した旧キリシタンなどから構成された。

乱は、島原や天草の首謀者たちが島原湾に浮かぶ湯島(談合島)で会合、天草四郎を総大将に決起することを決定、島原の一揆勢が有馬村の代官を殺害したことから始まる。

島原藩は一揆討伐を試みるが勢いを止められず、島原城へ帰還するも逆に一揆勢の攻勢を受ける始末。

これを受けて天草でも一揆が起こり、天草下島の本渡城を攻めて城代の三宅重利を討ち取ると、さらには西にある富岡城を攻め始めたものの落城させることはできず、後詰めの接近を受け富岡城の包囲を解いて島原半島へ渡り、有馬家の居城であった原城に入城し、改修を行った。籠城者は3万7千にのぼった。

幕府は乱の鎮圧のために上使、板倉重昌、副使、石谷貞清を派遣、九州の諸藩から総勢12万の兵を原城攻めに向かわせた。

一揆勢の籠城は90日に及び、総大将の板倉重昌が銃弾に倒れるなど幕府軍は苦戦を強いられたものの、2月27日の総攻撃により落城、3万7千の一揆勢は皆殺しされるに至った。
大政奉還   慶応3年10月14日(1867年11月9日)、将軍、徳川慶喜が政権を朝廷に返上した出来事。

将軍は天皇からの将軍宣下によって政権を預かっているという考え方(大政委任論)に基づき、幕府側から政権返上を奏上し、それを受け天皇が勅許する形となった。

政権は返上されたが、幕府や征夷大将軍職は、この時点ではそのまま残っていた。
生麦事件 文久2年8月21日(1862年9月14日)、武蔵国生麦で起こったイギリス人殺傷事件。

薩摩藩主、島津茂久の父、島津久光が率いる約400名の大名行列が江戸を出立し、東海道を西へ下っている途中、騎馬で川崎大師へ観光(通説)に向かうイギリス人の商人の家族4人と遭遇した。

藩士からは身振りにより下馬するよう指示されたがその意味がわからず、道の脇によけるだけにとどめていたところ、島津久光の籠の近くで騎馬のまま無遠慮に動いたことから藩士が無礼討ちに及び、1名を刺殺、2名に深手を負わせた。

事件後イギリスは藩士の引き渡しなどを要求するが薩摩藩は拒絶、翌年の薩英戦争に発展する。
天明の大飢饉 天明2年(1782年)〜天明8年(1788年)頃に起こった、江戸四大飢饉の中でも最大の飢饉。

折からの冷害に加え、1783年には岩木山と浅間山が相次ぎ噴火、日射量の減少から農作物は壊滅的な打撃を受けた。

これにより餓死者が続出、全国的には1780年からの7年間で100万人近い人口減を招いた。当時の日本の人口は2600万人ほどだったことから、被害の深刻さが知れる。

特に北日本の被害がひどく、例えば弘前藩では逃散した者も含めると藩内の人口が半減したと言われる。

影響は都市部へも広がり、江戸や大坂では米屋や商店の打ち壊しが横行、人肉を犬肉と偽って売るなどの行為もあったとされる。
日米和親条約 嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に、幕府とアメリカの間に締結された条約で、神奈川条約の別名もある。

前年、黒船4隻を率いて来航したペリー提督は開国と通商を求めたが、幕府は1年の猶予を求めていた。再来航したペリー提督に対し林復斎大学頭が交渉役となり、約1か月
の協議の末締結に至った。

条約の概要は、両国民の永久の和親の締結、下田と函館の2港の開港など。
八月十八日の政変   文久3年8月18日(1863年9月30日)、長州藩を中心とした尊皇攘夷派を、会津藩、薩摩藩などの公武合体派が排除した事件。

首謀者は京都守護職で会津藩主の松平容保で、中川宮朝彦親王をはじめ、公家で前関白の近衛忠熙や右大臣、二条斉敬、近衛忠房父子らとともに、早朝御所の九門を兵で固めた上で朝議を決行、尊攘派公家や長州藩主の毛利敬親の処罰、長州藩兵の京都警備を解くことなど決定した。

これにより長州藩兵や尊攘派の七人の公家が京都から追われ、長州へ下っていった。
明暦の大火   明暦3年1月18日(1657年3月2日)の午後2時頃から3日間、江戸の町を焼き尽くした大火災で、江戸三大火のひとつ。

江戸城は本丸も天守も大名屋敷も、外堀の内側のほとんどの部分が焼失するほどに延焼し、町民も合わせた死者は3〜10万人にのぼった。

実際には立て続けに起こった3つの火災が、被害をこれだけ甚大なものにしたのだが、最初の失火原因は諸説ある。
@本郷丸山の本妙寺から失火
A本妙寺の風上の老中、阿部忠秋邸から失火したが、本妙寺が罪をかぶった
B不逞の輩による放火

特に@については、供養しようと焼いた振袖が強風にあおられ舞い上がり、寺の本堂に火が移ったというもので、振袖火事との異名はこの説がもとになっている。

これをきかっけに、江戸の町を大火から守るための火除け地を設けるなど、新しい都市計画による町の再建が行われた。
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