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会津藩あいづはん
画像
陸奥国岩代
藩庁 会津若松城
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立藩 1601年(慶長6年)
外様・親藩
略歴
西暦 出来事 石高  藩主
1601年 関ヶ原の戦で大減封となった上杉家に替わり、蒲生秀行が会津60万石に復帰 60万石 蒲生秀行
1611年 会津地震で七重天守が倒壊
1612年 蒲生秀行が死没
  子の蒲生忠郷が10歳にして藩主に   蒲生忠郷  
  忠郷の母で徳川家康の娘、振姫(正清院)が忠郷を後見  
1613年 振姫と家老の岡重政が対立、徳川家康の命により岡重政が切腹  
1614年 大坂冬の陣
1615年 大坂夏の陣
1623年 蒲生忠郷が嗣子のないまま病没
1627年 弟で出羽国羽前上山藩主の蒲生忠知が跡を継ぎ、伊予国松山藩主に
1627年 替わって伊予国松山藩から、加藤嘉明が加増の上転封 43万石 加藤嘉明
子の加藤明利に3万石を分知(三春藩主) 40万石
1631年 加藤嘉明が死没
子の加藤明成が藩主に 加藤明成
その後、崩壊していた天守を修築
1639年 会津騒動(家臣、堀主水の出奔に関わるお家騒動)
1643年 これを受けて加藤家が改易に
出羽国羽前山形藩(20万石)から、徳川秀忠の子、保科正之が加増の上転封 23万石 保科正之 
1688年 保科正之、会津家訓十五箇条を制定  
1669年 保科正之が隠居
子の保科正経が藩主に 保科正経
1681年 保科正経が隠居
養子で弟の保科正容が藩主に 松平正容
1696年 松平姓を許される  
1731年 松平正容が死没
子の松平容貞が藩主に 松平容貞
1749年 農民による打ち毀しが発生
1750年 松平容貞が死没
子の松平容頌が藩主に 松平容頌
1782年 天明の大飢饉
1785年 家老、田中玄宰による藩政改革
1803年 藩校、日新館を創設
1805年 松平容頌が死没
従弟で養子となっていた松平容詮の子、松平容住が藩主に 松平容住
松平容住が死没
子の松平容衆が藩主に 松平容衆
1822年 松平容衆が嗣子のないまま死没
田中玄宰が万一の場合を考慮し極秘のうちに引き取り容衆の弟としていた、美濃高須藩の松平義和の三男、慶三郎(松平容敬)が藩主に 松平容敬
1852年 松平容敬が死没
甥の松平容保が藩主に 松平容保
1853年 黒船来航
会津藩が、品川の守備を命じられる
1859年 会津藩が、品川の守備を解かれ蝦夷地の守備を命じられる
1860年 桜田門外の変
1862年 松平容保、将軍、徳川家茂の命を受け幕政に参加
松平容保、京都守護職に
1863年 松平容保、参内し孝明天皇に拝謁
松平容保、京都で増加している過激浪士の平定を開始
上洛する将軍の守護を目的に組織された浪士組が分裂して結成された壬生浪士組を、松平容保が預かる
松平容保、八月十八日の政変を主導
  これにより、一橋慶喜、松平容保、桑名藩主の松平定敬による一会桑政権が発足  
壬生浪士組新選組と改称
松平容保、朝議参与に
  松平容保、病を得る  
1864年 松平容保、5万石を加増される 28万石
松平容保、京都守護職を解かれ、陸軍総裁(のちの郡司総裁)に
孝明天皇などの要望を受け、松平容保が京都守護職に復帰
新選組が尊攘派の御所焼き討ちを未然に防ぐ(池田屋事件)
禁門の変(蛤御門の変)の際、松平容保は孝明天皇を守護
第一次長州征伐
四国連合艦隊下関砲撃事件
功山寺挙兵により、長州藩の尊攘派が勢力を挽回
1865年 松平容保、病から回復
  徳川家茂、将軍職を辞す  
1866年 第二次長州征伐
徳川慶喜、十五代将軍に
孝明天皇が崩御
1867年 朝廷より、討幕と会津藩、桑名藩討伐の密勅が下される  
大政奉還
徳川慶喜、将軍職を返上
  薩摩藩、芸州藩、尾張藩、越前藩に宮中警護のための出兵命令が出される  
王政復古の大号令
1868年 松平容保が隠居
  弟の松平喜徳が藩主に   松平喜徳
戊辰戦争が始まると、会津藩は奥羽越列藩同盟の盟主として薩長軍と戦う
会津戦争で敗北、会津若松城が開城
1869年 戦後、領地を没収され、松平容保、松平喜徳は永禁固刑に