中国120万石を支配した毛利元就の巨大城
吉田郡山城よしだこおりやまじょう
場所 広島県安芸高田市吉田町吉田372付近(登城口)
旧国郡名 安芸国 高田郡
別名 郡山城
種別 山城
築城時期 1336年(建武3年)
築城背景 吉田荘の地頭となった毛利時親が、居城とすべく築城
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 毛利広元、毛利興元、毛利幸松丸、毛利元就毛利隆元毛利輝元
天守 不明
主な遺構 石垣、土塁、井戸、堀切
主な再建物  
交通 JR芸備線 吉田口駅 徒歩約95分
駐車場 山麓の無料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜登る25分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登25分

吉田郡山城(山麓から)
 

毛利元就の墓所そばの
百万一心の碑

二の丸と本丸(左上)

三の丸の石垣(崩壊)

尼子軍が陣を構えた
青山(左)と光井山(右)
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構成 安芸国東北部、石見国備後国との国境に近い吉田にある、標高389mの郡山全山に築かれた巨大な山城。

山頂の主郭は23m×10mの広さの櫓台を持つ本丸、その南側の36m×20mの広さの二の丸、40m×47mの広さの三の丸からなり、そこから延びる5本の尾根のほぼ全てに、合計270もの曲輪を配した。

吉田は江の川と、その支流、多治比川の合流地点になる。
縄張図
または
現地
案内図
現状 城跡として保存されており、各曲輪や土塁、堀切、井戸などが残っているが、主郭部の石垣はほとんどが破壊され、残骸が散らばる光景が印象的。

山麓部は公園化されており、模擬石垣や池などがあるほか、毛利元就を初め一族の墓所もある。
略歴
1336年 毛利時親が、居城とすべく築城
(中略)
1497年 毛利元就誕生
1500年 城主、毛利弘元が隠居し毛利興元(元就の長兄)が家督を相続し城主に
毛利弘元、二男の松寿丸(毛利元就)とともに支城の多治比猿掛城に入る
1506年 毛利弘元が死没
松寿丸(毛利元就)、家臣の井上元盛から所領を横領され、多治比猿掛城から追われる
1516年 郡山城主、毛利興元が死没、子の幸松丸が家督を相続し城主に
1517年 出雲国の太守、尼子氏の後ろ盾を得た佐東銀山城主の武田元繁に攻められるが、毛利元就が初陣し勝利
1523年 城主、幸松丸が死没、叔父である毛利元就が家督を相続し城主に
反元就派が、出雲国の尼子経久の庇護のもと、元就の弟、相合元綱を担ぎ謀反を起こすが、元就はこれを平定
1525年 毛利元就、大内氏から尼子氏へ寝返る
1529年 毛利元就、母方の実家である高橋家の反対派、高橋興光を殺害し粛清
その後、毛利元就は国内の有力な豪族、熊谷氏や天野氏と通じ地盤を固める
1541年 出雲国尼子晴久率いる3万に攻められるが、毛利元就は3千の兵で籠城。大内義隆が派した陶晴賢の救援もあり守りきる。(吉田郡山城の戦
毛利元就大内義隆と協力し佐東銀山城を攻め、安芸武田氏を滅ぼす
1542年 毛利元就大内義隆に従い月山富田城尼子晴久を攻めるが敗退、これを受け大内傘下からの独立を画策し始める。(月山富田城の戦(第一次)
毛利元就、二男の松寿丸(吉川元春)を吉川氏の養子に送り込む
毛利元就、三男の徳寿丸(小早川隆景)を小早川氏の養子に送り込む
1550年 この頃までに毛利元就は元春と隆景を養子先の当主に据えることに成功。これにより安芸国一国、さらには石見国備後国の一部も支配下におく。(毛利両川体制)
毛利元就、家中で幅を利かせていた井上元兼とその一党を殺害
1551年 毛利元就、主君大内義隆を謀反で殺害した陶晴賢と、領土問題から敵対
1555年 毛利元就、厳島に陶晴賢を誘い込み、村上武吉の水軍を味方につけ戦い勝利。
厳島の戦
1557年 毛利元就、勝山城の戦で陶晴賢の傀儡であった大内義長を自害させ、大内氏を滅ぼす。これにより周防国長門国の大部分も支配下に
毛利元就が隠居、嫡男毛利隆元に家督を譲る
1563年 城主毛利隆元が死没、隆元の嫡男、毛利輝元が家督を相続するが若年のため毛利元就が後見
1566年 毛利元就月山富田城を攻め尼子義久に勝利。尼子氏を滅亡させる。
第二次月山富田城の戦
これにより、毛利氏は出雲国伯耆国を手中にし、従った備中国美作国備前国の諸豪族の支配地を含め中国の大部分120万石の支配者に
1569年 毛利元就筑前国博多の支配権をめぐり大友宗麟と対立。(立花城の戦
一旦は立花城を手に入れる
尼子の残党山中鹿之介に担ぎ出された尼子勝久出雲国伯耆国を奪回されたため、毛利元就は九州から撤退
1570年 毛利元就、布部山の戦で尼子勝久に勝利し、再び出雲国伯耆国を支配下に入れる
1571年 毛利元就、吉田郡山城で死没
1580年頃 毛利輝元織田信長の部将羽柴(豊臣)秀吉の中国進出に対し抵抗
1582年 本能寺の変が起こるが毛利輝元はこれを知らないまま秀吉と和睦。和睦後織田信長の死を知るも、秀吉の大返しを追跡せず
1584年 毛利輝元羽柴(豊臣)秀吉の臣下となり、天下統一事業に貢献
1591年 毛利輝元広島城を築城し移る。これにより廃城