津和野盆地を見下ろす吉見家14代の堅城
津和野城つわのじょう
場所 島根県鹿足郡津和野町後田
旧国郡名 石見国 鹿足郡
別名 三本松城、石蕗城
種別 山城
築城時期 1295年(永仁3年)
築城背景 元寇警備のために西石見に入った吉見頼行が居城とすべく築城
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 吉見正頼、吉見広頼、吉見広長、坂崎直盛、亀井政矩
天守 二の丸の天守台の3重天守(非現存)
主な遺構 櫓(城下の馬場先櫓・物見多聞櫓)、石垣、空堀
主な再建物  
交通 JR山口線 津和野駅 徒歩約40分
駐車場 リフト乗り場の無料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜登る2分〜リフト乗り場〜リフト5分〜リフト山上駅〜登る15分〜主郭
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登15分

三の丸から見上げる人質郭と
三十間台の石垣(奥)

三十間台から人質郭(手前)と
三の丸を見下ろす

太鼓丸から三十間台への虎口

西櫓門あとの虎口

三十間台からの眺望
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構成 石見国南西端、津和野川の流れる津和野盆地を見下ろす標高367mの霊亀山に築かれた山城。

南北に伸びる尾根を利用しており、大きくは北側から出丸(綾部丸)、主郭、南出丸などから成る。

主郭は石垣がふんだんに使用されており、三十間台と呼ばれる広い曲輪を中心に、北側の太鼓丸、南側の人質郭、天守台を置いた二の丸、人質郭の南の三の丸などのほか、西側の尾根にも台所や馬立場などの曲輪が置かれた。

二の丸の天守台には3重天守が築かれたが、詳細は不明。

坂崎直盛による大改修の際築かれた石垣造りの出丸は、織部丸とも呼ばれる。
縄張図
または
現地
案内図
現状 城跡として整備されており、麓から出丸そばまで観光リフトで行くことができる。
リフト駅から出丸を経て主郭までは徒歩約15分ほどだが、登りも含まれる。

出丸、主郭ともに石垣がしっかり残っている。
砕けた瓦も至るところにあって廃城当時を偲ばせる。
略歴
●三本松城
1295年 吉見頼行が築城し三本松城と名付ける
その後、吉見家は周防国の大内家に従う
(中略)
1532年 吉見頼興が死没。子の吉見隆頼が家督を相続し城主に
1540年 吉見隆頼が早世。吉見正頼が家督を相続し城主に
1551年 主君、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により死没(大寧寺の変)
その後、吉見正頼安芸国毛利元就に接近し、陶晴賢討ちを画策
1554年 陶晴賢率いる大内勢に三本松城を攻められるが、のちに和睦(三本松城の戦)
1557年 吉見正頼毛利元就の大内攻めに同調
1582年 吉見正頼清水宗治の籠る備中高松城の援軍として参陣(備中高松城の水攻め
吉見正頼が隠居。子の吉見広頼が家督を相続し城主に
1586年 吉見広頼、九州攻めに従軍
1590年 吉見広頼、小田原城攻めに従軍
1598年 吉見広頼が隠居。子の吉見広長が家督を相続し城主に
1599年 吉見広長が毛利家から離反し出奔、吉見広頼が再び当主に
1600年 吉見広長が帰参
関ヶ原の戦後、毛利家が長門国周防国のみ安堵され、それに伴い吉見広長は萩に移る
●津和野城
1604年 坂崎直盛が城主に(3万石)
大改修の上、津和野城と改称
1616年 坂崎直盛、千姫事件により死没。坂崎家は改易に
1617年 亀井政矩が城主に。(4万3千石)
(後略)