早雲の築城による鎌倉の要害
玉縄城たまなわじょう
場所 神奈川県鎌倉市城廻200(付近)〜植木
旧国郡名 相模国 鎌倉郡
別名 甘縄城
種別 山城
築城時期 1512年(永正9年)
築城背景 相模国平定を目指す北条早雲が、三浦の新井城三浦道寸を孤立させるために築城
名城  
主な城主 北条氏時、北条為昌、北条綱成、北条氏繁(康成)、北条氏舜、北条氏勝、本多正信、長沢松平家
天守 なし
主な遺構 土塁
主な再建物  
交通 JR東海道線 大船駅 徒歩約30分
駐車場 鎌倉大船モールの有料駐車場など
徒歩・登山 駐車場〜徒歩5分〜登城口〜登る10分〜諏訪壇付近
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登10分

玉縄城の遠望

大手の七曲坂から見下ろす谷戸
構成 相模国鎌倉の北部の丘陵を利用して築かれた梯郭式の山城。

広大な本丸は丘陵の頂のひとつに置かれ、東の一段高い場所に諏訪壇と呼ばれる物見台があった。

複雑に入り組む谷や堀切、さらには多くの曲輪があったと推定される。

大手道は本丸の南側から東へ向かって下る細い坂道であり、七曲坂と呼ばれた。

城域の東から南に流れる天然の外堀、柏尾川は、相模湾への水路としても重要に機能していた。
縄張図
または
現地
案内図
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現状 城域は学校や住宅地となっており、遺構はほとんど残されていない。

本丸は清泉女子学園となっており、その正門脇に諏訪壇があるが、許可無く立ち入りはできない。

七曲坂の登り下りは可能。

本丸東の玉縄民族資料館そばの竜宝寺は、城主だった北条綱成、北条氏勝を祀っている。
本丸の南西にある久成寺(くじょうじ)は、松田秀長の屋敷跡。
略歴
1512年 北条早雲が築城。二男の北条氏時が城主に
1516年 扇谷上杉家の上杉朝興が三浦道寸への援軍に駆けつけるが、城の北方で北条勢に敗北
これにより、新井城は陥落、三浦道寸は討ち死に
1526年 安房国の里見義豊、里見実堯に鎌倉を攻められるが、玉縄城にて防戦。
(大永鎌倉合戦)
1531年 城主、北条氏時が死没。甥で北条氏綱の三男、北条為昌が城主に
1542年 城主、北条為昌が死没。福島家から北条家に入っていた北条綱成が城主に
その後、綱成の子、北条氏繁が城主に
1561年 長尾景虎(上杉謙信)の侵攻を受けるが、防戦。
小田原城攻め(上杉謙信)
1569年 武田信玄の侵攻を受ける。
小田原城攻め(武田信玄)
1578年 城主、北条氏繁が死没
1580年 氏繁の子、北条氏舜が城主に
????年 北条氏舜が死没し、弟の北条氏勝が城主に
1590年 豊臣秀吉小田原城攻めで、徳川家康に攻められ4月21日に開城
本多正信が城主に
(後略)