天空の城の異名をとる総石垣の城
竹田城たけだじょう
場所 兵庫県朝来市和田山町安井
旧国郡名 但馬国 朝来郡
別名 虎伏城
種別 平山城
築城時期 1431年(永享3年)
築城背景 但馬国守護の山名宗全(持豊)が、播磨国方面への抑えの城として築城。のちに家臣の太田垣光景を城主に据えた
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 山名宗全(持豊)、太田垣光景、太田垣輝延、羽柴(豊臣)秀長桑山重晴、赤松広秀(斎村政広)
天守 不明
主な遺構 天守台、石垣
主な再建物  
交通 JR播但線 竹田駅 徒歩約60分
駐車場 山腹の無料駐車場
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登15分

播但連絡道の料金所からの遠望

二の丸からみた本丸の天守台

本丸から北側、大手門方面を望む
(二の丸、三の丸、北千畳)

本丸から南側を望む
(南二の丸、南千畳)
構成 但馬国南部、標高353mの虎臥山(古城山)に築かれた総石垣造りの山城で、日本三大山城のひとつ。

山頂の本丸を中心に、北へ向かう尾根上に二の丸、三の丸、北千畳を連ね、南へ向かう尾根上にも南二の丸、南千畳を並べ、さらに本丸の西にも花屋敷と呼ばれる曲輪を配した、梯郭式の縄張り。

本丸には天守台が築かれたが、天守があげられたかどうかは不明。
縄張図
または
現地
案内図
現状 国史跡の城跡として整備されており、まさに天空の城を思わせるような素晴らしい城跡である。

山腹の大きな駐車場からの登城になるが、大手門経由で比較的ゆるやかに登ることができるルート(所要約15分)と、近いが傾斜が急な花屋敷経由での直登ルート(所要約10分)が用意されている。
略歴
1431年 但馬国守護の山名宗全(持豊)が築城
1441年 嘉吉の乱で、山名宗全(持豊)が播磨国など3ヶ国の守護、赤松満祐を攻め滅ぼす。
これにより播磨国を併呑
1443年 山名宗全(持豊)の家臣、太田垣光景が城主に
1467年 応仁の乱が起こると、城主、太田垣光景は京都の山名軍に従軍、その隙をつかれ細川方の内藤氏から城を攻められるが、城兵が奮戦し撃退
1522年頃 赤松勢の挽回により劣勢となった山名勢が播磨国から撤退
1569年 織田信長の家臣、羽柴(豊臣)秀吉に攻められ、山名祐豊が堺へ逃亡
  城主、太田垣輝延は織田氏に服従し、竹田城主にとどまる
山名祐豊、織田信長に許され但馬国に戻る
1573年 吉川元春率いる毛利軍の攻勢を受け太田垣輝延が降伏
1575年 丹波国黒井城主、荻野(赤井)直正に攻められ竹田城を一時占領される
  太田垣輝延は織田信長に救援を依頼、信長の家臣、明智光秀丹後国但馬国へ派遣されたため、荻野(赤井)直正は丹波国へ撤退(黒井城の戦(第一次))
1577年 城主、太田垣輝延が毛利氏と和睦したことから、今後は織田信長と敵対、羽柴(豊臣)秀吉の弟、羽柴(豊臣)秀長の侵攻を受け落城
  羽柴(豊臣)秀長が竹田城代に
1579年 羽柴(豊臣)秀長播磨国へ撤退したため、再び太田垣輝延が城を取り戻す
1580年 羽柴(豊臣)秀長に攻められ、但馬国は完全に織田氏の支配下に
  羽柴(豊臣)秀長は有子山城主となり、秀長の家老、桑山重晴が竹田城主に
1582年 本能寺の変
1585年 羽柴(豊臣)秀長が、和泉国紀伊国大和国110万石の大名となり、大和郡山城を居城にすると、桑山重晴紀伊国和歌山城城代に
  これにともなない、播磨国龍野城主だった赤松広秀(斎村政広)が竹田城主となり、大改修
1600年 関ヶ原の戦で、城主、赤松広秀は初め西軍につき、細川幽斎(藤孝)の籠る丹後国田辺城攻めに参陣、のちに東軍につき因幡国鳥取城攻めに参陣するが、その際鳥取城下に大火を起こした責任を取らされて切腹、竹田城は廃城に