筒井順慶が復興させた急峻な山城
高取城たかとりじょう
場所 奈良県高市郡高取町大字高取83付近(登城口)
旧国郡名 大和国 高市郡
別名 芙蓉城、鷹取城
種別 山城
築城時期 1332年(元弘2年)
築城背景 南朝方の土豪、越智邦澄が貝吹山城の支城として築城
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 越智氏、筒井順慶脇坂安治、本多利久、本多俊政、植村氏
天守 3重3階地下1階天守(非現存)+2重2階小天守(連立式)
主な遺構 天守台、石垣、堀切、移築門
主な再建物  
交通 近鉄吉野線 壺阪山駅 約7km
駐車場 無料駐車スペース
徒歩・登山 駐車スペース〜20分登る〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登20分

大手門の枡形虎口

二の丸

二の丸(手前)と本丸(石垣の上)

本丸の石垣

天守台の高石垣
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構成 奈良盆地の南部、吉野山系の標高584m(比高400m以上)の高取山に築かれた総石垣の山城で、美濃岩村城備中松山城とともに日本三山城のひとつとされる。

城内は1万平方キロ以上、外郭まで含めると6万平方キロにおよび、日本最大級の山城。

山頂の主郭部には連立式天守(3重大天守、小天守、硝煙櫓、鉛櫓を多聞櫓で連結)など、29基もの櫓があげられ、山麓からの眺めは見事であったという。

主郭は本丸、西の段下の二の丸、その北側の大手門、その北側の三の丸から構成された。

主な登城ルートは3つで、北の高取城下町からのルートがメインで二の門を入ると郭内(城内)で、主郭へ向かう尾根周辺に多くの曲輪が置かれ、侍屋敷が建てられた。

二の門から南へ向かうと大手門に出るが、西の壺阪口と東の吉野口からの登城ルートもこの大手門で合流することになる。
縄張図
または
現地
案内図
現状 国の史跡となっており、石垣や天守台などが残されている。

比高400以上の山にこれだけの石垣が使われているのは圧巻の一言で、日本三山城とされているのもうなづける。

車の場合は、壺阪門下の駐車スペースが広くてお勧めだが、もう少し上まで走った主郭の下にも数台停められるようである。
略歴
1332年 越智邦澄が貝吹山城の支城として築城
  (中略)
1532年 天文の錯乱の際、一向一揆勢に包囲されるが、筒井勢の援護を受け守りきる 
1580年 大和国一国を拝領した筒井順慶大和郡山城を築城し居城としたことなどから廃城
1582年 本能寺の変
1584年 筒井順慶が支城とすべく復興させ、本格的に整備
1585年 筒井定次が伊賀国上野に転封
大和国紀伊国和泉国合計100万石の領主となった豊臣秀長の重臣、脇坂安治が城主に(2万石)
脇坂安治淡路国洲本城主(3万石)となったため、本多利久が城主に(2万5千石)
1589年 本多利久、城を大改修
????年 本多俊政が家督を相続し城主に(1万5千石?)
1591年 豊臣秀長が死没。養子の豊臣秀保が城主に
1595年 豊臣秀保が十津川で変死すると、城主、本多俊政は豊臣秀吉の直臣に
1600年 関ヶ原の戦前、本多俊政は東軍についたため、留守を西軍に攻められるが守りきる
城主、本多俊政、1万石を加増される(2万5千石)
1637年 本多氏が断絶
1640年 植村家政が城主に
(後略)