渥美半島の喉元、戸田家の居城
田原城たはらじょう
場所 愛知県田原市田原町巴江11
旧国郡名 三河国 渥美郡
別名 巴江城
種別 平城(水城)
築城時期 1480年頃(文明12年)
築城背景 戸田家中興の祖、戸田宗光が居城とすべく築城
名城 私の500名城
主な城主 戸田宗光、戸田憲光、戸田康光、朝比奈元智(今川家城代)、本多広孝、伊木忠次、戸田尊次、戸田忠能、三宅家
天守 なし(天守替わりの二の丸層塔式二階櫓)
主な遺構 石垣、堀
主な再建物 二の丸櫓(復元)、桜門(復元)
交通 豊橋鉄道渥美線 三河田原駅 徒歩約11分
駐車場 資料館や崋山会館の無料駐車場など
徒歩・登山 駐車場〜徒歩3分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩3分

二の丸櫓(復元)、日出門(復元)

二の丸下の枡池(柝池)と桜門

三の丸下の袖池(堀)

空堀
構成 渥美半島の付け根にある田原の、三河湾のすぐそばの平地に築かれた平城。

築城当時は東から北、西まで海が取り囲む水城だったが、17世紀後半の干拓により周囲は陸地となった。

広い本丸を中心に、西に二の丸、南に三の丸、北に藤田曲輪とその腰曲輪、二の丸の先に出曲輪などを置き、周囲は池や堀で防御した。

主郭部は石垣造りで、天守はあげられず、二の丸に櫓門を伴う層塔式二階櫓があげられ、これが天守の替わりとなっていた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 巴江公園となっており、二の丸に櫓と日出門が復元され、櫓内部は博物館となっている。

石垣に囲まれた枡池と袖池も残されており、三の丸の桜門も復元されている。

本丸は、三宅家の祖で南朝の忠臣、児島高徳を祀る巴江神社となっており、土塁の一部が残る。

三の丸は護国神社に、出曲輪は渡辺崋山を偲ぶ崋山神社に、本丸の北にあった蓮池は中学校になっている。
略歴
1480年頃 戸田宗光(初代)が居城とすべく築城
1493年 戸田宗光(初代)が二連木城へ移り、子の戸田憲光が城主に
  (中略)
1529年 城主、戸田宗光(二代目)、松平清康の臣下となり、戸田康光に改名
1531年 松平清康が家臣により殺害される(森山崩れ)
駿河国今川義元三河国に侵攻、松平家は今川家に従属。これを受け戸田家も今川家に従属
1545年 戸田康光の娘、真喜姫(田原御前)が松平広忠に嫁ぐ
1547年 戸田康光松平広忠の嫡男、竹千代(徳川家康)を今川義元の元に人質として送る役目を任せられるが、今川家を裏切り、尾張国織田信秀の元へ届ける
激怒した今川義元勢に田原城を攻められ、戸田康光は討ち死に(田原本宿の戦)
今川家の家臣、朝比奈元智が城代に
1560年 桶狭間の戦で、尾張国に進出した今川義元が討ち死に
松平(徳川)家康が城を攻め落とす
家康の家臣、本多広孝が城主に
1572年 三方ヶ原の戦
1575年 長篠の戦
1577年 本多広孝が隠居し、子の本多康重が城主に
1584年 小牧・長久手の戦
1590年 徳川家の関東移封により、本多康重は上野国白井城主に。(2万石)
吉田城主(15万石)となった池田輝政の支配下となり、家臣の伊木忠次が城主に
1601年 池田輝政播磨国52万石へ転封に
松平家康の譜代、戸田尊次が城主となり、初代田原藩主に。(1万石)
1615年 戸田尊次が死没し、子の戸田忠能が城主に
(後略)